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日記など。

神の子らの復権〜「ヴェルヴェット・レボリューション」から続くアヤックスの物語〜

レアル・マドリードのホームスタジアム、サンチャゴ・ベルナベウには異様な雰囲気が流れていた。チャンピオンズリーグを3連覇中の白い巨人は前半すでにアヤックスに2点のリードを許しており、迎えた62分、際どい判定で右サイドのライン内にボールを残したノゼア・マズラウィから始まるショートカウンターでボールは中央のデュシャン・タディッチに渡る。正確なコントロールで得意の左足にボールを置き、振り抜いた弾道は美しく弧を描いてゴール左隅に突き刺さった。

 

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誰がこんな展開を予想しただろうか。セルヒオ・ラモスが意図的なイエローカードを貰ったことで不在だったとはいえ、ホームでの初戦を1-2で落としたアヤックスの勝利を予想する声は少なかった。事実、ラモス自身も、この試合は勝てると踏んで故意に出場停止を選んだのだ。かたや3連覇中のメガクラブ。かたや今や凋落したと思われたオランダの経験不足の若者たち。実力差は明確なように思われた。

 

しかしこの日のアヤックスは自信に溢れていた。前線からの執拗なハイプレスでレアルに落ち着く隙を与えず、弱冠19歳のキャプテン、マタイス・デ・リフトを中心とする守備陣はことごとく攻撃を跳ね返した。その後のインターナショナルウィークでブラジル代表に初招集されることとなる21歳の技巧派ドリブラーダヴィド・ネレス、魔法のようなボール捌きと意表をつく長短のパスで決定機を演出するモロッコ代表のハキム・ツィエフの両ウィングは尽くチャンスを演出しゴールを決めた。圧巻だったのは3ゴールに絡んだタディッチと、来夏のバルセロナ行きが決まったフレンキー・デ・ヨングだった。タディッチは文句のつけようがなく、デ・ヨングは相対するモドリッチに一歩も引けを取らないどころか、いとも簡単に中盤を支配しているように見えた。

 

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タディッチの美しいゴールが決まった瞬間、英語の実況はこう叫んだ。

 

"The rebirth of Ajax as an European giant"

 

 

果たしてこれは、アヤックス復権なのだろうか?栄華を極めた70年代、そして90年代中盤のアヤックスが、ようやく戻ってきたのだろうか?

 

 

 

物語は2010年に遡る。

 

「これははもはやアヤックスではない」

 

アヤックス、そしてバルセロナのレジェンド、近代フットボールの父、ヨハン・クライフは、オランダの新聞デ・テレフラーフのコラムでそう語った。奇しくもレアル・マドリードに0-2の敗戦を喫した後の話であった。クライフはクラブへの介入を始め、「ヴェルヴェット・レボリューション」と呼ばれる改革を始める。彼は手始めに、アヤックスの魂を理解するかつての名選手たちをクラブのマネジメントに招き入れた。エドウィン・ファン・デル・サール、ヴィム・ヨンク、フランク・デ・ブールマルク・オーフェルマルスデニス・ベルカンプ錚々たるメンバーのもと、アヤックスの改革は徐々に進んでいった。

 

 

クライフが目指したのはクラブのアイデンティティへの回帰だ。すなわち、「デ・トゥーコムスト」と呼ばれる、オランダ語で「未来」を意味するユースアカデミーを中心とするチーム作りと、オランダ流のパスを回す攻撃的なサッカーの実現である。ヴィム・ヨンクをヘッドとするユースの改革は進み、「各年代での勝利を目指さず、個に焦点を当てた育成を行う」という方針が確立された。チームプレイのみならず、より多くの時間がテニスや柔道といった個々人のスポーツ能力を高めるトレーニングに当てられるようになった。オフィシャルサプライヤーであるアディダスの協力を受け、選手のプレーと運動量をトラッキングする仕組みも整った。結果、トップチームを率いたフランク・デ・ブールの元、クラブはコンスタントに優秀な選手を輩出し、国内では4連覇を達成することとなる。その間、ヤン・フェルトンゲントビー・アルデルヴァイレルトクリスチャン・エリクセンダレイ・ブリント、ヤスパー・シレセン、アルカディウシュ・ミリクといった選手がビッグクラブに旅立ち、クラブは相当額の移籍金を手に入れ、財政基盤を盤石なものとしていった。

 

しかしながら、改革が様々な軋轢を生んだことも事実である。クライフの介入を良しとしないクラブは2011年末にルイ・ファン・ハールをジェネラル・ディレクターとして迎え入れるが、これは反発するクライフ側との裁判沙汰に発展した。2012年2月、法廷においてファン・ハールの就任は無効との判決が下る。クライフ自身はアヤックスの経営に直接的に関わることはなく、あくまで「テクニカル・ハート」と呼ばれた、彼の意思を体現しクラブの方向性に対する意思決定を下す前述の往年の名選手たちに対するアドバイザーという立場をとったが、これが事実上のクライフの勝利であることは間違いなかった。

 

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クライフ(右)とヨンク(左)

 

この決定がクラブの安定的な繁栄のための基盤を作ったことは確かだが、国内の成功と裏腹に国際舞台では結果を残せない時期が続いた。2015年にクライフはテクニカルアドバイザーとしての職を辞し、2016年には肺がんでこの世を去ることとなる。ヴェルヴェット・レボリューションはここで象徴的な終焉を迎える。しかしながら、アムステルダムにおけるクライフは今も昔も神だ。常にクラブを正しい方向に導く、フットボールの神。伝説の背番号14。アムステルダムの誇り。誰一人として彼の見えていた世界に辿り着くことはできない。

 

クライフは神だ。しかしその強引な手法には常に批判も付きまとい、しばしばクライフ派と反クライフ派の間で対立が起こる。両者の溝は、もしかしたら些細な違いでしかないかもしれない。クライフもファン・ハールも、攻撃的なサッカーを志向する。素人目には両者のサッカーに大きな違いはないように見えるだろう。しかし両者は不仲で知られ、前述の通り彼らの対立は裁判まで発展した。クライフが去り、フランク・デ・ブールが去る間、クライフの信奉者とされるヴィム・ヨンクも「プラン・クライフが十分に実行されていないこと」からクラブを去った。同じく「クライフ信者」とみなされるデニス・ベルカンプフランク・デ・ブールの後任のピーター・ボスと対立し、ボスが1年でクラブを去る要因になったと言われている。ベルカンプも解任を不当と捉え、クラブに対する訴訟を起こし、金銭的な解決が図られるに至った。この時点ですでに形骸化していたテクニカル・ハートの正式な終焉である。

 

2016-17シーズン、若く、素晴らしいアヤックスを率いたピーター・ボスは、ヨーロッパリーグ決勝進出という結果をもたらした。しかし、その後の1年はアヤックスにとって混乱と不幸が続いた。ボスはスタッフとの対立によりわずか1年でクラブを去ることとなる。ベルカンプとヘニー・スパイケルマンに支えられたマルセル・カイザー監督のもとで、新たなチーム作りにとりかかろうとしていた矢先、アヤックス・ユースの近年における最高傑作という見方も多かった、稀有な才能がチームを離れることになる。

 

 

アブデルハク・"アッピー"・ヌーリ。小柄で、笑顔を絶やさない、誰からも愛される天才プレーメーカー。異次元のテクニックと視野の広さでチャンスを演出する10番。彼はワールドクラスなんてものでなく、世界最高の選手になる可能性だってもっていた。

 

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ヌーリはプレシーズンのトレーニングマッチにおいて突如、ピッチに倒れ込み、身体の動かぬ状態となった。そのまま彼がピッチに戻ることはなく、今に至るまで病院のベッドで過ごしている。チームのメンバーにとってショックの大きさは相当なものだっただろう。1ファンとしても、彼が活躍する姿を見たかったと、強く思う。今ひとつ調子の上がらないチームはチャンピオンズリーグヨーロッパリーグの出場を逃し、リーグでも不甲斐ない結果が続いた。マルセル・カイザー監督は解決策を失い、スポーティング・ディレクターのオーフェルマルスとCEOのファン・デル・サールは全コーチングスタッフの解任に踏み切ることとなる。クラブは当時、ユトレヒトの監督を務めていたエリック・テン・ハフを引き抜き、ホッフェンハイムでユルゲン・ナーゲルスマンの元で働いていたアルフレッド・シュロイデルをアシスタントとして迎え入れた。

 

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結局このシーズンは目立った結果を残せず終わることとなるが、新たなコーチングスタッフの働きは今シーズン、最高の形で結果を出しつつある。今アヤックスには、新たな風が吹いている。テン・ハフとシュロイデルはいわゆる「ラップトップ監督」と言われる、データを用いた緻密なスカウティングに長けた指導者だ。血気盛んな若者たちを相手にする難しい仕事の中で、出場機会に不満を漏らす選手もおり、選手との不仲が報じられたこともある。(特にツィエフやファン・デ・ベークの不満よく報じられるが、真相は定かではない)しかし、アヤックス伝統の攻撃的なサッカーを貫きつつも、細かな部分で臨機応変に戦い方を変え、今シーズンは強豪と互角以上に渡り合ってきた。これは、これまでのアヤックスには見られなかった戦い方だ。また、選手補強の方針にも大きな変化が見られた。ツィエフ、ネレス、タディッチといった選手はそれぞれ1000万ユーロ以上の金額で獲得しており、ブリントをマンチェスター・ユナイテッドから買い戻すという策にも出た。こういった選手たちがユース出身の選手(デ・リフト、ファン・デ・ベーク、マズラウィ、ダニ・デ・ヴィットなど)、あるいはリザーブチームのヨング・アヤックスで経験を積んだ選手(デ・ヨング、オナナ、カスパー・ドルベリなど)と融合し、素晴らしいラインナップが揃っている。ジョゼ・モウリーニョアヤックスの戦い方を「ナイーブ」と表現した。しかし、レアル相手に見せた戦い方はしたたかそのもの。今のアヤックスは守りきる強さも、落ち着いてリズムを作る狡猾さも、チャンスを確実に得点につなげる怖さもある。レアルを破ったのは、大番狂わせだった。しかし大番狂わせと偶然は違う。これは育成の勝利、経営の勝利、スカウティングの勝利、そしてアヤックスのカルチャーの勝利だ。

 

 

アムステルダムは変化を厭わない街だ。新たなアイディアを取り入れることにオープンな人々の暮らす、多様で、クリエイティブで、自由な街だ。しかし同時に、歴史が息づく街でもある。守るべきところを守り、変えるべきところを変え、アムステルダムの人々は暮らしてきた。アヤックスアムステルダムとともにある。ひとつのクラブ、ひとつの哲学、ひとつの街。アヤックスという存在は、単なるフットボールクラブではない。アムステルダムの人々の生活、生き様そのものなのだ。

 

 

ヴェルヴェット・レボリューションは、大きな摩擦を生む、伝統への回帰だった。その革命の成果として、ユース世代はこれまで以上に才能溢れ、戦力として計算できるタレントを輩出できるようになった。そこに、新たな戦術理論がもたらされ、適切な投資に踏み切る姿勢を幹部が見せことで、アヤックス復権を迎えつつある。様々な偶然が折り重なって生まれた成果ではあるが、クラブの柱であるユースの再定義と、さらなる投資を可能とする財務基盤が、改革の結果生まれたものであることは間違いない。道のりは長かった。しかし、アヤックスは道半ばだ。間も無く、ユベントスとのベスト8の試合を迎える。リーグはPSVと勝ち点で並び、あと5試合、ひとつも落とさない。そして、もっと、ずっと先の未来を、エドウィン・ファン・デル・サールは夢見ている。

 

 

「究極のゴールは、フットボールの世界において、アヤックスが誰もの2番めに好きなクラブとなること。CEOとして、選手と同じように、私は勝利したい。」

 

 

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移籍だけではなく、その姿勢、描く未来、そして結果によって、「セリング・クラブ」ではなく安定したビッグクラブとしての地位を築くこと。マーケティングの側面においての改革はすでに始まっており、各国のクラブとのパートナーシップが進んでいる。また、YoutubeInstagramTwitterを見ればわかるとおり、アヤックスのメディアチームは素晴らしい働きをしている。新しい時代の、新しいアヤックスが、生まれようとしている。しかしその中でも変わらず根底を貫く哲学は、未来を見据えて、解決策を探っていく、アムステルダムという街のあり方そのものだ。

 

 

「勝者のメンタリティ。毎日、成長していくというメンタリティ。毎日、より良くなっていくというメンタリティ。そして、そうするための規律。ここにはそれがある」

 

 

こんな言葉を言うのが19歳の若者であるということに驚かされる。しかし、9歳からデ・トゥーコムストで育ったデ・リフトはクラブを、そしてアムステルダムという街を、誰よりもよく理解している。

 

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トレイルにて

穏やかな日々だ。暖かく、清潔で、明るく、適度に広い、東京の真ん中にほど近い場所にあるマンションの10階にある部屋からは、日が昇って街が橙色に輝いたり、日が沈んで紫色に染まっていく様子がよく見える。それほど混雑が深刻ではない地下鉄の路線を使えるようになったことで、悪態をつきながら満員電車に乗って消耗することも減った。閑静な住宅街という言葉が適切かどうかはわからないが、猥雑な商店街は周りに少なく、数件ある居酒屋や中華料理屋なんかも23時にはだいたい閉まってしまう。会社から終電に乗ってボロボロになりながら三軒茶屋に辿り着いて狭いラーメン屋でラーメンを啜ったり、帰り道にある24時間営業のスーパーに寄って食材を買って日付が変わるころにビールを飲みながら唐突にカレーを作り始めたり、なんていうこともなくなった。自宅にたどり着くまでにエレベーターに乗らないといけないことなんて初めてだ。通りに面した1階にあった前の家は、玄関の扉を開けたらすぐそこには自転車が停めてあって、いつでも好きなときに走り出すことができた。今、僕の自転車は、自転車が整然と並ぶマンションの駐輪場にきちんと置いてある。

 

10年近く、一人で暮らした。その中で何度か引っ越しもして、いくつかの街に住んだ。そのそれぞれに味があって、お気に入りの場所が見つかった。部屋はきれいにしようと思いつつも、たまに乱雑になってしまい、男臭い匂いが漂ってしまっていただろう。いつからか家で酒を飲むことも日常的になって、そんなことに金を使わなければ今頃もっと貯金があったかもしれないな、とふとした瞬間に思ったりするが、なにはともあれ激動で、刺激的で、いつも酩酊状態で過ごしているような日々だった。もちろん、酒を飲むのは夜だけだけど、思い返すといつも葛藤し、ギリギリで、頭の中に靄がかかったような日々だったように感じる。

 

一人で暮らす自由さにすっかり慣れてしまった僕にとってこの1年間は、そんな頭の中の靄を晴らすような日々だった。きちんと生きることは楽しいけれどとても難しい。特に自分のようないい加減で、自分勝手な人間にとって、自分以外の人のことを気にしながら、ちゃんとした生活を送っていくというのは、どうやらとても難易度の高いことのようだ。それは頭が鍛えられ、こなすことで成長を感じられることではあるし、不自由だとか息苦しいとか言うつもりはまったくないけれど、それでもやはりどこかで自分をリセットし、最大限の自由を感じる瞬間というのが必要だ。

 

 

答えは山にあった。なるべく身軽になるように荷物をパッキングして、山を歩いたり走ったりする。鍛えたいと思ってやっているわけじゃない。苦しい思いを積極的にしたいと思っているわけでもない。ただ僕は、人里離れた山々を、誰にも縛られることなく、走りたいときに走って、歩きたいときに歩いて、休みたいときに休みたいのだ。

 

 

だからどうやら、僕は山頂を目指し上下に移動していくいわゆるピークハントというものよりも、どうやら水平に移動することの方が好きなようだ。ある夏の北アルプス常念岳から大天井岳、燕岳と稜線を歩く日本で最も人気の登山ルートの一つである表銀座を歩いた。美しい登山道を登り切って辿り着いた乗越の小屋から眺める百名山常念岳雄大だったけれど、苦労して急坂を登っていくより風を感じながら稜線を歩きたくなって、頂上を目指すことなく先に進んだ。大天井岳はもっと楽に頂上まで行けそうだったけれど、新調したテントの中の居心地がよくて、簡単な昼食兼夕食を作ってビールを飲んでいるうちに、どうでもよくなってしまった。山並みを眺めながら、横に移動するのが好きなのだ。素晴らしい名山の頂上をスルーしてしまうことにもったいなさや、若干の罪悪感も感じてしまうけれど、でも頂上に登らないといけないって誰が決めた?この雄大大自然を一歩ずつ進んで、携帯もつながらない、誰にも邪魔されないテント場で、何もせずぼーっとすることだって、立派な山の楽しみ方なのではないか。

 

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あのときにどうやら、僕なりの山の楽しみ方というのがわかったような気がする。そのあとはそんな楽しみ方のできそうな、なるべく水平に長く、遠くまで歩いたり走ったりできるコースを探して、ちょくちょく出かけている。南から北まで移動した八ヶ岳では、苔むした沢沿いの道からとんがった山頂、そしてまるで絵本の世界のような、静かで美しい湖など、飽きることのない山歩きをすることができた。

 

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山にいるということはある程度の不衛生や不便を受け入れるということだ。泥を踏んでしまったりすることもあるし、テントで泊まったら当然シャワーなんて浴びることはできない。汗を吸った服を続けて着なければならない。トイレのそばに手を洗える水場があるとは限らない。限られた食料をどう食べていくか考えたり、ときには雨風にさらされ寒さに震えることもある。15キロの荷物を背負うことなど、日常生活では考えられない。登山口に向かうバスは数時間に一本しかないかもしれない。ヘッドライトがないとまともに歩けないこともある。普段の快適な生活からのギャップはとても激しい。あれ、自由になりたいって言いながら、山で過ごす時間って実はとても不自由なんじゃないの?とたまに思ったりするけど、気にしない。大切なのは気にしないことだ。日常生活で「気にしない」という選択をとると、自分の心が死ぬか誰かに不快な思いをさせるかどちらかだが、山では自分一人にしか迷惑はかからない。きっと、それが自由ということなのだろうな。そんなことを、朝日に照らし出された南アルプスのどっしりとした山並みを眺めながら思ったりした。

 

 

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もっと長い距離を、もっと長い日数をかけて、歩いてみたいと思う。行先は北海道か、熊野古道か、お遍路か、はたまたジョン・ミューア・トレイルか、アパラチアか、デ・アラロアか、アラスカか、ラップランドか。世界には歩いたことのない道がいくらでもあるし、なんと日本の中ですら数えきれないほどのトレイルがあるのだ。そのそれぞれに歴史があり、人々の暮らしがある。そんなことを思うと、途方もない気持ちになったりする。

 

 

もうすぐ30歳になろうとしている。もう、手放しで若いと言える年齢じゃない。友達は次々と家庭を築いていって、きっとこの先、交友関係も変わっていくのだろう。人生、先は長い。この先何が起こるかわからないし、不安もあるけれど、でもきっと、ちょっと日常に疲れたら、山に向かえばいい。山は癒してくれない。汚いし、疲れる。でもそこに身を投げ出す自分の気持ちは、背負った荷物が重ければ重いほど、そして歩く距離が長ければ長いほど、不思議と軽くなっていくような気がするのだ。

 

長い旅

気がついたらまた暖かくなって、またひとつ冬が終わって、僕はどうやら花粉症になったようだ。鼻にむずがゆさを覚えながらも、一歩一歩を確かめながら、夕暮れの東京の街を走る。休みをとって、眠りすぎた結果、鈍った身体の中に血が巡る感覚が心地よい。まだまだ、こうやって何の不自由もなく身体を動かせることのありがたさを感じるとともに、それでも年々、筋肉はしなやかさを失い、脚の運びは少しずつ鈍くなることにも同時に気付かされる。

 

 

人生を選ぶ、というのはどういうことだろう。トレインスポッティングレントンは言った。"Choose life"と。人生を選ぶことを拒否し怠惰な生活を続けていた彼は、物語の最後にようやく自らの意志で、人生を選びとる。しかし、その選択は彼を幸せにしたとは言い難い。結局彼は、過去の友人からは遠く離れ、彼の忌み嫌った「普通の」人生を送ることとなったが、その人生もどうやら順風満帆にいっていたわけではなさそうだ…という様子はトレインスポッティングの20年後を描くT2で映し出されている。

 

 

責任をとる、というのはどういうことだろう。30も近くなり、周りの友人はどんどん結婚していく。なんとなく面倒で避けてしまっている地元に久しぶりに帰ったりすると、自分の親がまさにそうしてきたように、地元で結婚し、家庭を持ち、子を育てる、という人生を送る友人を目の当たりにすることになる。彼らは、自分だけではなく、共に時間を過ごす家族に責任を持つことになる。そんな彼らが、僕の目には、とても眩しく映る。

 

 

今の日本は、レールから外れたときに、戻ってくるのがとても難しい社会だ。だからどこかで自分も腹をくくらないといけないのだろう。レールの上で、まっとうに、生きていくのだと。東京で働き、家庭を持ち、家族を愛し、子を育て、財を成し、老後に備え、家を買う。しかしこれが本当に当たり前なのだろうか。地元の友人たちにとって、あるいは地方で暮らすことを決めた大学以降の友人たちにとってみれば、東京でそのような生き方をすることなど非合理の固まりのように映るのかもしれない。そんなふうにできるのは、一部の人だけのはずなのに、いつのまにかそれが当たり前のように考え、そう考えること息苦しさを感じたりもする。かといって自分はどこに行きたいのだろうか。好きな場所はどこなんだっけ。

 

 

たとえば、突然、長い旅に出て、好きな場所を見つけて、そこにちょっと休憩するみたいな感覚で、住み着いてしまうことができたら楽なのかもしれないな、と思う。しかし、今の自分にそんなことができるだろうか。レールから外れることができるだろうか。自分の人生を、そのような形で選べるだろうか。ひとりで生きているわけではないという、その責任と天秤にかけて、それでも旅に出たいなどと、言えるだろうか。

 

 

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きっと、人はいつも、それぞれの光を捜し求める長い旅の途上なのだ - 星野道夫

 

そう、こうして更けていく東京の夜の風を感じている、今この瞬間だって。

 

大雪の夜に

年が明けて少しだけ経って、目まぐるしく色鮮やかに日々が過ぎていった去年の年末がもうすでに恋しくなっている。住む場所を変えて、仕事はこれまでにないほど忙しくて、好き仲間と酒を飲んで、親には申し訳ないと思うけれど東京でいつの間にか大晦日を迎えて、気づいたら終わっていた一年。心地よい疲れの中で、随分と遠くまで来たもんだなとぼんやりと思いながら過ごした日々は、濃密だけど爽やかで、あんな日々にずっと身を置けたら、とても楽しいだろうな、なんて思いながら今になって振り返っている。

 

新年も迎えても東京の日当たりのよい部屋で、新しい街に少しずつ慣れながら、のんびりとした日々を送っている。掃除をして、洗濯をして、料理をして。お金を払ってものを書って部屋に置く。お金を払って食料を買ってそれを食べる。お金を払っていろんな所に行っていろんなものを見る。生活をすれば水道光熱費がかかるし、家賃は毎月払わないといけないし税金から逃れることはできない。そんなあたりまえのことを、あたりまえに感じながら生活していた。少し前には早起きして山に行った。ガシガシと歩いて山に登り、寒い頂上で火をおこし暖かな食事をとって、汗がひいてブルッとしながら眼下に広がる秩父の街並みを眺めて、せっせと山を下って温泉に入った。今日は東京にも60年ぶりの大雪が降って、予約した小洒落たイタリアンの店をキャンセルするかどうか迷った末に、これ以上ないくらい暖かい格好をしてはしゃぎながら雪の中を歩いて、おいしいパスタとワインに舌鼓を打った。

 

ぼくはこの街でちゃんと生きている。生活は続いていく。不安なことや、悲しいこともあるかもしれないけれど、それでも一歩ずつ、進んでいく。進んでるのかどうかもよくわからないけれど、でもきっと今ぼくはちゃんと幸せだ。

昼のビールと夕暮れ時

昔住んでいた部屋の最寄り駅には大きなスーパーがあって、そこには多種多様な酒が売ってあった。社会人になりたてで様々な刺激にいささか疲れていた僕は、金曜の夜の予定もそれほどに埋めることなく帰宅し、外を走ったりしてから眠り、土曜の朝起きるとスーパーに向かって食材と各地のビールを買い込み休日の昼から酒を口にした。今ほどクラフトビールなど流行っていなかった、少しだけ昔の話だ。真夏の強い日差しの中、汗をかきながら自転車を漕いでスーパーから帰ってきて飲むドイツやアメリカのビールは、爽やかな苦さと麦の香ばしい甘みに加えて、ほんの少しの罪悪感の味がして、それはそれはおいしかった。

 

 

会社に入って1年目のことがこんなにも昔に感じられることに驚く。あの頃は、という言葉はたとえば高校時代とか大学時代とか、もう少し昔のことを指して使う言葉だと思っていたけれど、今となってはあのうだるような暑さの夏も、ちょっと前の、立派な「あの頃」のできごとだ。

 

 

今と何が変わっただろうか。そういえばあの頃は、もっと夕日を見ていた気がする。昼から酒を飲み、少し昼寝をして、起きたらだいたい一日が無為に過ぎていっていることに気がつく。しょうがないので起き出して、顔を洗い、サンダルを履いてあてもなくふらふらと夕方の街をさまよう。橙や紫に染まっていくカラフルな街を眺めて、ちょっと立ち止まって、もんもんと悩んで、すぐにどうでもよくなって、そうやって休日の午後の時間は過ぎていった。沈む夕日よりも、変わっていく街の色が好きだった。そんなに高いビルがある街ではなかったけど、東京の夕日はすぐに建物の裏側に沈んでしまう。だから、夕日そのものを見ることではなくて、青く変わって一瞬赤く光るあの時間に身を委ねることが、気持ちよかった。

 

 

あそこらへんの土地はのどかでおだやかで、きちっとした感じはなくてちょっとしただらしなさがあって、通勤や遊びを考えたらお世辞にもいい立地とは言えなかったけれど、その適当さ加減がとても心地よかったことを覚えている。そこには大学を卒業する前と社会人になってから少しの間の、ほんの短い期間しか住むことなく、単調な生活の中で貯まったはした金を僕は引っ越し資金につぎ込んでしまった。写真をとったり文章を書いたり、というのを意識するようになったのは引っ越しをした後だから、当時の写真も残っていなければ、ほんとうはどんな気持ちで日々を過ごしていたのかを知るすべもない。あの頃は夕ご飯はどんなものを食べていたっけ。どんな場所に出かけていたっけ。どんなことを感じていたっけ。くっきりとした記憶は消えてしまっている。でも言えるのは、その後住んだ街も、今住んでいる街も、とても好きだけれど、人生が大きく変わった瞬間を過ごしたあの街はやはり今でも特別だということ。見栄えのいい景色も気持ちのいい散歩道すらなかったけれど、夕日に染まる道を車が行き交う様子と、そのとき感じた心地よさは、きっとぼんやりとした形のままこの先もずっと記憶に残っていくのだろう。

 

 

長い休みをとってアテネエーゲ海に浮かぶ島々を訪ねてきた。海と遺跡と夕日を見る旅だ。日没の日没前後の一時間から一時間半程度を、夕日の見える場所で過ごした。贅沢な時間の使い方だ。そういえばあの頃も、夕暮れ時をもっとのんびりと過ごしていたっけ。目の前に広がる絶景と、あのしみったれた風景は、それこそ雲泥の差かもしれないけれど、あの頃の夕日だってきっとちゃんと美しかったんだ。

 

 

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広い世界の美しさに触れることの意味は、日常の小さな世界の中にもどこかで確かに息づく美しさを、見過ごしてしまわないように暮らしていくことの大切さを気づかせてくれることにもある。最近はそんなことを思うし、そう思えるようになったことを嬉しく思う。

 

 

冬の終わり

シャルケ戦で先発した17歳のマタイス・デ・リフトとジャスティン・クライファートの2人は、アヤックスが20年前にチャンピオンズ・リーグで最後に四強に進んだ当時、生まれてすらいなかった。カメルーン国籍のGKアンドレ・オナナ、コートジボワールのベルトランド・トラオレ、コロンビアのダヴィントン・サンチェスといった外国籍の選手は、アムステルダムの街に来るまで、アヤックスという小国のクラブが当時ヨーロッパ随一の戦力を誇っていたことなど、知る由もなかっただろう。そしてその他多くのメンバーや若いファンにとっても90年代の「マイティ・アヤックス」はもはや遠い遠い過去の、伝説のような、真実味のない存在になってしまった。

 

ヨーロッパリーグのベスト8に名を連ねたアヤックスは、ホームのアムステルダム・アレナシャルケ04を2-0で粉砕した。彼らが見せたダイナミックで、流動的にボールが循環する攻撃的サッカーは、まさにクラブが理想として掲げる「トータルフットボール」の姿そのものだった。平均年齢23歳、試合によっては22歳にもなるチームが、70年代、リヌス・ミケルスヨハン・クライフの時代から連綿と続くクラブの哲学を見事に体現していたのだ。これはちょっと普通のことではない。しかし、今年のチームには、期待を持つに値する選手が揃っている。奇跡的な躍進ではあるが、決して単なる奇跡ではない。

 

 

 

今年のアヤックスにはフランク・デ・ブールが率いていた昨年までとは異なる魅力がある。両ウイングに入るアミン・ユネス、トラオレ、クライファートといった選手たちは、単にフィジカルの強さとスピードで相手を引き離すだけでなく、変幻自在のトリッキーなドリブルでリズムを作り、決定的なパスを送ることができる。その中でも注目を集めるジャスティン・クライファートは、アヤックスの黄金期を支えたパトリックの息子だ。父親とまったく同じ顔をしているが、小気味好いドリブルで敵陣を切り裂き観客を沸かせるプレースタイルは、ストライカーとして活躍した父のそれとは異なった魅力を放つ。ドイツで燻っていたユネスは、加入2年目にして、ヨーロッパリーグで最も多くのドリブルを成功させているウィンガーに成長した。そしてナポリにクラブ最高額で移籍したアルカディウシュ・ミリクの後を継ぐのは、若干19歳のデンマーク人、カスパー・ドルベルグ。モナコのキリアン・ムバッペとともに今欧州で最も注目を集める10代のストライカーだ。

 

特筆すべきは中盤の構成。30歳にしてアンカーにコンバートされたラッセ・シェーネは、長短の正確なパスでチームのボール回しの中心となるだけでなく、危険を察知し相手の攻撃を芽を摘む能力を発揮している。キャプテンとして攻守を牽引するクラーセンは、おそらく現在のアヤックスで移籍市場において最も高値のつく選手だろう。彼がチームをあらゆる局面で引っ張り、スペースを見つけて素晴らしい得点を決める。そして、クラーセンのダイナミズムに彩りを添えるのが、トゥエンテから加入したハキム・ツィエフだ。彼の存在が、近年のアヤックスに長らく欠けていたクリエイティビティをチームにもたらし、彼らのサッカーをより魅力的なものにしている。

 

守備陣にも素晴らしい選手が揃う。バルセロナカンテラ出身であるオナナは、ヤスパー・シレセンが去ったゴールマウスを堂々と守りきるだけでなく、足元の技術を活かしビルドアップの起点となる。オランダ代表としてW杯も経験したヨエル・フェルトマンは右サイドバックにコンバートされ、的確なオーバーラップと正確なフィードで攻撃にも大きく貢献する。20歳のサンチェスと17歳のデ・リフトは身体能力の高さで相手を潰すだけでなく、攻撃参加し点も決めることができるモダンなCBだ。そして27歳のニック・フィールヘフェルは、昨年まではなかなかスタメンに定着できない時期が続いたが、今年はCBと左サイドバックの両方を高いレベルでこなし、チームに欠かせないピースとなっている。ヘーレンフェーン出身のダレイ・シンクフラーフェンは、攻撃的MFから左サイドバックにコンバートされ、目覚ましい活躍を見せている。

 

その他にもドニー・ファン・デ、ベーク、アブデルハク・ヌーリ、フレンキー・デ・ヨングといった若手も、着実に経験を積み、来期以降のスターティングメンバーの座を虎視眈々と狙っている。平均年齢は若いながらも、要所要所にベテランも起用され、バランスの良い戦力を揃えることができているのが、今年のアヤックスだ。

 

 

 

相手を圧倒する素晴らしい試合を展開した1戦目とは打って変わって、2戦目は苦しい展開となった。後半、2点を立て続けに決められ、延長前半にも1点を許すだけでなく、フェルトマンも退場となる絶望的な状況。しかし、チームを救ったのはフィールヘフェルだった。120分間、どこにそんな力が残っているのか不思議になるほどピッチ全体に顔を出し、守備に貢献するだけでなく多くのチャンスを作った。延長後半、ケニー・テテからのクロスをクリアーしようとしたナスタシッチにフィールヘフェルが猛然と詰め寄る。クリアーがブロックされ、ボールはそのままゴールへ。さらに、前がかりになったシャルケに引導を渡すゴールをユネスが叩き込み、アヤックスは2戦合計4-3での準決勝進出を決めた。これはアヤックスが実に20年ぶりにヨーロッパの舞台で四強入りを決めた瞬間だった。試合を見た人にとっては、戦術やスタッツでは表すことのできないフットボールの美しさ、ひいてはスポーツが生む奇跡や感動、そして一方では残酷さを、目の当たりにすることとなった。

 

フィールヘフェルのゴールは運の要素も多分にあるゴールだったが、あそこであと一歩足を伸ばせること、冷酷に駄目押しの2点目を決められること、そして苦しい状況でも運を手繰り寄せらることこそが、このチームの持つ価値を表している。平均年齢23歳のチームが、ついにここまで来てしまった。これは当然ながら、現時点でチャンピオンズリーグおよびヨーロッパリーグの四強となっている8チームのうち、最も低い数字だ。若いと言われるモナコでも25歳なのだから。

 

 

ヨーロッパでの躍進はピーター・ボス監督がアヤックスのサッカーを蘇らせた結果でもある。無難にパスを回すだけでなく、時に力強くゴールに迫る。大胆なロングパスで裏を狙う。選手の技術の高さに裏付けされたポゼッションだけでなく、美しくゴールを奪うことこそがアヤックスアイデンティティなのだと、アムステルダムの人々は再確認している。

 

 

「今度こそは」と誰もが思っている。今度こそ、ヨーロッパで結果を残してくれる。今度こそ、ワールドクラスのタレントが再びアヤックスから輩出されるようになる。今度こそ、愚かなミスでの敗退ではなく、完全な勝利か、戦いきった末の美しい敗北で、シーズンを終えてくれる。アムステルダムの人々は、20年間、辛抱強くこの時を待っていた。今、その瞬間がついに来ようとしている。そして、シャルケに素晴らしい形で勝利した今年のアヤックスは、その境地に一歩、足を踏み入れつつある。

 

デ・リフトやクライファートがワールドクラスの選手になるというのは、少々過度な期待かもしれない。若く経験の浅い彼らは、準決勝でリヨンにあっけなく敗れ去り、リーグではフェイエノールトとの差を埋めきれずに2位に終わるかもしれない。しかし、きっと、ファンはこのシーズンを後世に語り継いでいくだろう。誰よりも愛されるキャプテンの背番号10がチームを率いた姿を。クライファートの息子が、その後長く続くであろうその偉大なキャリアの第一歩を踏み出した瞬間を。サンチェスのオーバーヘッドを。シェーネのフリーキックを。ドルベルグのハットトリックを。

 

 

この一年は語り継がれていく。どんな結果になるにせよ、長い冬の時を経て、ようやく、クラブに誇らしい新たな歴史が生まれたのだから。そしてそれは、若いファンにとって、父親や母親たちが語る伝説ではなく、ようやく彼ら自身の口から語ることのできる、自分たちの物語なのだから。

 

 

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冷えた街

夜遅くに起こった厄介ごとのせいで、日が昇る前に起きて震えながら裸になってシャワーを浴びる。冬なんてたいして汗もかかないんだし、肌も乾燥するから、朝のシャワーを浴びる必要はあまりないのだけれど、なんとなく習慣で、毎日シャワーを浴びている。熱いお湯で強制的に目を覚まし身体を洗い髭を剃り、洗面所で髪を乾かし、髪型を整え、少しだけ香水をつけてからスーツを身に纏う。外に出ると刺すような冷気だ。曇った空は少しずつ明るくなるけれど、それは厚い雲の存在を際立たせるだけで、青空は一向に見えてこない。ふと、軽く肌に触れるものがある。粉雪が舞っていた。まるで、上空の寒さに耐えられなくなったから、地上に逃げ出してきたみたいだな、と思う。小さくて、ごく軽い雪の粒が、路上に落ちて消える。東京に暮らしていても、こんな日もある。

 

 

嘘をつくことがうまくなってしまって、日常をやりすごすことに慣れてしまって、やってはいけないことを繰り返すことに慣れてしまって、これでいいのかと思いながら一日、また一日と、心の中に黒い染みが増えていく。もう少し頑張れば、救いはあるだろうか。どこまで走り続ければほんとうにほしいものが手に入るだろうか。ちょっと疲れたから休もうかと考える余裕もなくて、ふと振り返ると今日は昨日とまるで違う一日で、僕は一時間前のことすらうまく思い出せないで立ち尽くす。

 

 

気が付いたら肯定してほしいだとか、認めてほしいだとか、そんなちっぽけなことばかり考えている。勝手に傷ついて、相手のことなんて考えないで、自分の殻に閉じこもる。そんな生き方はもうやめようと思って、ちょっとだけうまくできたかなと思ったけれど、自分の本質はそんなに簡単に変えられるものではない。だからこそ人を認められる人でありたい。肯定できる人でありたい。でもそれがうまくできずに日々、悶々としている。

 

 

 

怪獣の腕のなか

笑っちゃうくらいに抱きしめるから

誰かを拒むための鎧など

重たいだけだから捨てましょう

 

―きのこ帝国『怪獣の腕のなか』

 

 

 

ここ最近の東京は冷え込みが厳しくて凍えるようだ。暖かい季節というのは、どんなものだったっけ。人はその状況から遠く離れたときにうまく記憶を呼び寄せることができない生物だ。いつだって思い出すのは、その瞬間がやってきたとき。ああ、昔、こんな冬もあったなと、思い出す。