gezellig

日記など。

Walk Slowly

惚けた老人は若い時の習慣に従って徘徊するという。

 

 

僕の曾祖母に当たる人は、昔から山で山菜を採ったりして生計を立てていたこともあり、

年老いて惚けてからは何度も山の中で警察に保護されたという。

 

 

今年96になる僕の祖父も、若い頃からの習慣を守り続ける人だ。

足腰が弱り、目もあまり見えず、耳も遠くなった今でも、

玄関に鍵をかけ、夜にカーテンを閉める。その動作だけは繰り返す。

 

 

まるで、今も自分がその家の主であるということを確かめるように。

自分の名前が表札に掲げられたその家に、自分が今も住み続け、

生きているということを確かめるように。

 

 

彼がすっかり惚けてしまったとしても、世間一般で言う「徘徊老人」にはならないだろう。

彼には元来近所を歩き回ったり、買い物に出かけたりする習慣はなかった。

年を取り、車が運転できなくなり、16の頃から吸い続けていたという煙草もきっぱり辞め、

酒も飲まなくなってからは、来る日も来る日も新聞を読み、家の鍵を確かめ続けた。

 

 

「それが良い人生だったかどうかは我々が判断できるものじゃない。」

 

 

そう父は言う。

 

 

確かにそうなんだろうな、と思うくらいの余裕は、いつの間にか僕も身につけていた。

でも、心の何処かで、そんな人生嫌だ、と僕は思う。

そんな人生から逃れたくて、この土地から出たのだ、と思い返す。

 

 

生まれた土地で、ずっと生き続ける人生もある。

それを選ぶことだってできたはずだし、今から選ぶのにも遅くはない。

 

 

でもきっと今の僕に必要なのは安定ではなく不安定さで、

余裕ではなく性急さで、成功ではなく失敗なのだろうと思う。

まるで10代みたいに傷つき、泣いて、叫ぶことが、

きっと今の僕に何よりも足りていないことなんだと思う。

 

 

 

自分の人生が良かったかどうかを決めることができるのは自分しかいない。

あたりまえのことだけど、じゃあどうするって、

自分が好きなように生きるしかない。

今の自分は好きなように生きることができているだろうか。

たぶんそうじゃない。自分が求めているのはこんなもんじゃない。

 

 

 

 

…なんて思いつつも、「次のステップ」とか何だのを考えるには、

あまりに僕は目の前にある日々の仕事に忙殺されすぎていて、

それでもやはりその忙しさがどこか心地よくもあり、

今日も満員の電車で会社に向かう。

 

 

夜遅く家に帰る道で、大きく溜息をついて、そして家に帰って眠る。