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日記など。

Bedankt voor Alles

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世界で最も多くの人々が熱狂するスポーツイベントが終わった。

 

地道な育成と戦術理解の徹底が実を結び、今大会最高の完成度を見せていたドイツが盤石の強さで優勝を収める一方、その西隣の小国にも満足感が漂っている。

 

オランダはホスト国ブラジルとの3位決定戦に勝利し、3位でトーナメントを終えている。決勝に進んだ前回大会と比べるとひとつ順位を落としてはいるものの、グループステージ突破が関の山と思われていた大会前の下馬評を覆す感動的なパフォーマンスだった。

 

 

オランダ人がフットボールを語るとき、常に念頭にあるのはヨハン・クライフの存在だ。

 

 

リヌス・ミケルスが生み出し、クライフが具現化した「トータル・フットボール」。4-3-3、あるいは超攻撃的な3-4-3のフォーメーションで織りなされる美しいパス交換とスピードに乗った華麗な攻撃。敗北を恐れて自陣に引きこもるのではなく、あくまでも美しく攻める。動けなくなった老兵にチームを任せるのではなく、新しい世代に活躍の場を与える。無様に勝利することよりも、美しい敗北を選択する。それがオランダのフットボールのDNAだと思われてきた。

 

 

「トータル・フットボール」の考え方は、しかし、オランダ社会の歴史を鑑みれば、決して「オランダ人らしい」ものではない。確かにオランダは優れた芸術家を多く生み出してきた国家だ。社会の作り方だったり、働き方だったり、そういった面においても非常にクリエイティブな国家でもある。しかし、オランダ社会の性質の根本は、「合理性」にある。農業と貿易で富を蓄え、干拓と治水によって国土を発展させてきたオランダ人は、合理的であることの重要性を他のどの国の人々よりもよく知っている。

 

 

オランダは、国家を発展させる手段として寛容な社会を形作り、移民を多く受け入れてきた。移民の受け入れは必ずしも「寛容」という尊い理念のもとに行われてきたことではなく、合理的に国家を発展させる手段であった。また、多民族の共存のための権利保障が他国に先んじて行われてきたのは、むしろ民族間の軋轢を防ぎ、国家崩壊を避けるための必然であった。そういった歴史的背景を踏まえると、耽美主義的な「トータル・フットボール」の理想は、必ずしもオランダ的ではないということがわかるだろう。

 

 

しかし、オランダ人は長年「トータル・フットボール」の理想を追いかけてきた。仮にアヤックスが、たとえレアル・マドリーのようなチームが相手であっても、自陣に引いてディフェンスを固める戦術をとったならば、オランダ国民全員が口汚くチームを罵るだろう。フェイエノールトが若手の育成を諦め、金の力で優秀な中堅選手を買い漁り始めたら、デ・カイプに足を運ぶ人間はいなくなるだろう。合理的でシステマチックな社会において、オランダ人は芸術とフットボールに一瞬の狂気を見出してきた。

 

そんな思想の中、オランダのフットボール界は時に素晴らしいタレントを生み出してきた。整備された育成システムはトータル・フットボールを理解する一定水準以上の選手を多く生み出してきたが、ハイレベルな育成の中で、戦術の枠では語り尽くせない才能を持った選手が少なからず生まれてきた。クライフに始まり、ファン・バステンベルカンプはそういったカテゴリーに入るだろう。あるいは、全盛期のスナイデルファン・ペルシー、大会を逃したファン・デル・ファールト、そして大会MVP級の活躍を見せたロッベンという選手は、コレクティブなフットボールを志向するオランダにあって、異質な輝きを見せる才能である。

 

 

オランダは前提として個人の力に頼るアメリカ社会とは異なり、全体としての統一を再優先にした上で個人の自由を認める寛容な社会だ。

 

 

そういう意味で、今回のW杯でオランダが見せた戦いは、実にオランダらしいものであった。個人の質で勝てないのであれば、守備を固めて前線のスピードとテクニックに頼る。美しいフットボールを捨てて合理的に勝利を目指した「オランイェ」は、皮肉にも、何よりもオランダらしい姿を見せていた。

 

 

「伝統的」と思われていたトータル・フットボールを捨てたオランダ代表は、当初大きな批判を受けた。しかし、終わってみれば、彼らにとって最高のトーナメントだった。アルゼンチンの代わりにオランイェが決勝に進出し、戦力で劣る彼らがドイツを破るサプライズを起こしたとしても、何の不思議もなかった。それほどまでに今回のチームは素晴らしかった。

 

 

誇り。

 

 

それが今のオランダを取り巻く感情だ。限られたリソースの中で最高の結果を導き出したオランダ代表のフットボールは、そのままオランダという国家の発展の歴史に重なる。

 

 

例えば、スペインに追いつき、破壊的な5得点の最初の1点となったファン・ペルシーのダイビングヘッド。そしてそれに繋がるブリントのフィードが描く美しい弧。それは、合理的な戦い方の中にあっても、最高級に美しいものだった。

 

 

 

オランダは、2回のワールドカップを現実的な戦い方で終えた。中盤での激しいプレッシングが特徴的だった前回大会も、5バックで守備を固めた今回大会も、「トータル・フットボール」を捨てた戦いだった。しかし、それでも準優勝、3位と、人口1700万の国家としては十分過ぎる結果を残してきている。むしろ、こういった戦い方こそがオランダらしさなのではないかと思えるような結果である。選手一人一人が全力でチームのために戦い、ゴールを奪っていく姿は、感動的なものだった。

 

 

それでもオランダ人は、一定の満足感の中で、「次こそは」と思っているだろう。圧倒的にボールを支配し、サイドを広く使って素早く攻め、選手一人一人がクリエイティブな発想でゴールに絡む。今のオランダにとっては、それは「理想」を通り越して「幻想」に近いものかもしれない。クライフという突然変異。しかし、その存在は、堅実で合理的なプロテスタント社会において、人々の美への欲求を呼び覚ますに十分な、とてつもなく大きなものだった。今も、彼らはクライフに狂喜しているのだ。

 

 

これからオランダのフットボールは、どこに向かっていくだろうか。そして、オランダ社会はどこに向かっていくだろうか。寛容なオランダ社会においても、昨今では排外主義が暗い影を落としつつある。願わくば、かつてゴッホの存在を許したように、クライフの存在を許したように、「美しさ」が賞賛される社会であり続けてほしいと、東洋の片隅から思っている。