gezellig

日記など。

insomniac

学生のころは眠れない夜というのが好きだった。うんうんと布団の中でなんとか眠ろうともがいた後は、潔くあきらめて布団を抜け出し外に出る。そこにはいつもは感じることのない空気があり、嗅ぐことのない匂い、耳にすることのない音があった。その頃のアパートは駅から遠くどこへ行くにも自転車が必要な、ひどく不便なところにあった。腹が減っていたら深夜の吉野家に行って牛丼を食べた。マクドナルドのコーヒーで気が済むまで粘ることもあった。そういうときは大抵、分厚い学術書だったり、小難しい小説だったりを読んでいて、当時はまるでそんなこと考えもしなかったんだけれど、こんなことできるのは今だけだって、心のどっかで、わかっていたみたいだった。よし朝まで起きていてやろうなんて思っても、結局夜が深まってもうちょっとで太陽が昇る時間になれば、眠くなって家に帰る。朝方の冷えた部屋で、ほんの少し差し込む陽の光を感じながら、満足感とほんの少しの罪悪感が織り交ざった、しあわせな気持ちで布団にくるまって、すっと眠りに落ちる。そうやって何度、一限の授業をすっぽかしたっけな。

 

数年たった今、眠れない夜には常に現実がついてまわる。早く寝ないと明日の仕事に支障が出てしまうな、とか、今から吉野家に行ったら太ってしまうな、とか。今週もよく働いたな、今日はとびっきり早く寝てやろうと意気込んで布団をかぶった金曜の夜、眠気はさっぱり訪れず、けだるい身体と覚醒した頭のコントラストがちぐはぐで、身体に正直に生きるってことを最近ちょっとずつ忘れっちまってるな、なんてことを思ったりする。頭の中をいろいろな考えが次から次へとめぐっては消えていく。さっき考えてたことは、なにかとても切実で大切なことのはずだったのに、次の瞬間にはもう思い出せなくなっていて、悲しいような虚しいような気持ちになる。身体はだんだん火照ってきて、あの頃と同じように、あきらめて布団から出る。違うのは、起きだしてしまったからってマクドナルドに行ったりしないってことだ。

 

退屈な音楽。退屈な本。退屈なインターネット。退屈な夜。見慣れた部屋の風景。しかし、そこから抜け出すことは、今の僕にはできない。昔とは何かが決定的に変わってしまっていて、たぶん、僕を家から連れ出す何かを取り戻すには、身の回り、そして自分の中のいろいろなことを変えないといけない。

 

別に今、夜更かししたって、休日の午前中がちょっと縮まるだけだ。もし今日が週の中日だったら、どんなに遅くまで寝ていても、きっと朝には起きて仕事に行くんだろう。あの頃感じていた、ちょっとした悪いことをしている感覚。そんなもの、どうやったって取り戻せやしない。それは間違っているわけではなくて、それが成長ということなのだと思うし、健全なことなのだと思う。それでもちょっと、やっぱり、その頃のいろいろが、たまらなく懐かしくなったりしてしまうのだけれど、きっとそれも含めてちょっとずつ歳をとるっていうことなのだろうな。たとえば、ふっと見上げた東京の端っこの星空だったり、深夜の店の中の人々の疲れた表情だったり、自転車で走る長い坂道だったり。思い出してみると鮮明に蘇ってくるようでもあり、そのいくつかの記憶は時間の経過に伴って美化されたり改竄されたりしてしまっているものなのだろうなとも思ったり。

 

想い出はいつもキレイだけど それだけじゃおなかがすくの

JUDY AND MARY - そばかす)

 

はらぺこのおなかを牛丼で満たしたりは、今はしない。Choose life. Looking ahead the day you die.