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日記など。

「誰も近づくことのできないほど奥深い森の中で倒れる木は、音を立てるのだろうか」

 

不思議なことに、というのもはばかられるくらいよくある話だけれど、知らない人ばかりの都会で人の波に飲み込まれていると、人は孤独を感じるものだ。これだけの人々に囲まれながら暮らしていても、その中に自分のことを知っている人なんてほとんどいない。静寂の深淵の中で倒れようとする木が音を立てるかどうかはわからないけれど、もし、音を立てていたとしても、それにどれだけの意味があるだろうか。もし、僕が絶対的な孤独のなかで何かを感じ、考えたとしても、それに何か意味があるだろうか。

 

 

『荒野へ』で描かれたクリストファー・マッカンドレスは、アラスカの厳しい自然の中にたったひとりで身を置こうとした。人を寄せ付けない、奥深い森。ひとりの若者が対峙するにはあまりにも偉大な自然の驚異の中で、食べるものすら満足に得ることができず、天国へつながっているかのような透き通る青空の下で彼は静かに死んでいく。彼が死の淵で導き出した結論は、"Happiness only real when shared"というものだ。

 

 

分かち合うことができなければ、いかなる感情も真実とはなりえない。ならば、自分が日々の生活で感じる幸せや、苛立ちや、疲労感や孤独は、真実たりえないのだろうか。一人で家に帰り、夜遅くまで一人で考え事をしているとき、ふと、今自分が考えていることに何の意味があるのだろうと思う。何かを口に出し誰かと共有しなければ感情は本物とならないのだとしたら、日々、自分の中だけで、まるで奥深い森の中で倒れる木のように、死んでいく感情がどれだけあるだろうか。自分の考えていることや、感じた感情を、記録しなければと思う。しかし、それが他人向けになったところで、出てくるのは取り繕った偽物の言葉ばかりだ。本当の感情はどこにいってしまったのだろうか。本当の感情などというものはあるのだろうか。自分が今現実だと思っている物事は、実は誰かが見せている夢なのではないだろうか。すべてが無意味に思える瞬間は確かにあって、そうなってしまったときの建設的な解決策を僕はまだ知らない。時間が流れ、心が温かみをもってものごとを受け止めることができるようになるのを待つことしかできない。そのとき心の中には激しく揺れ動く思いがあるはずだが、たいていのことは忘れてしまう。忘却され、死んでいく感情たちにせめてもの居場所を与えてあげたいと思い、文章を書くけれど、書けば書くほど、自分が日々何を感じながら生きているのかわからなくなるし、表現したいものごとと、表現できる自分の力のギャップは年々大きくなっていく。

 

 

 

嘘をつくことになれてしまったね。なにかを隠すことになれてしまったね。そこには豊かで、穏やかな日々があるかもれないけれど、どこかに隠して忘れてしまった思いたちが、いつかその存在を証明し、居場所を求めるために暗い森の墓場から這い出して来るのではないだろうかと思うことがある。いつ、その瞬間がやってくるのかはわからないけれど、少なくとも今の生活をいつまでも続けることはできないだろうなと思う。そう考えたところで、今の自分には、今の生活を、ひとまず進めていくことしかできないということもわかってはいるけれど。

 

 

嫌な季節になった。梅雨の東京はどこまでも不快で、けれど人々は夏を待ち焦がれながら、なんともないような顔で毎日電車に乗っていて、それが余計に不快に感じられる。分厚い雨雲が静かに流れる空の下で、雨に濡れた道路は疲れた人々の姿を曖昧に映す。唯一、あじさいだけが灰色の世界に彩りを与えている。

 

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できれば、雨に濡れた姿を撮ってあげたかったな、と思う。つかの間の晴れ間に、その色が褪せてしまわないようにと願いがら、シャッターを切った。