gezellig

日記など。

日記20150704

今日は休日だけど会社に行って少しだけ仕事をした。昨日は夕方から全社でのイベントがあって早めに仕事を切り上げた人が多かったので今日はその分会社まで来てる人が多いかなと思っていたけど全然そんなことなくて僕ともう一人くらいしかいなかった。特段仲が良い人でもなかったので部屋に入ったときと帰るときに「お疲れ様です」と言っただけだ。今日はこれと、玄関までやってきたモルモン教徒の誠実そうな男の人に対してすこし申し訳ないなと思いつつも「今少し忙しいので」と言ったのと、クロネコヤマトの人に対して「はい」と言ったのと、日高屋でダブル餃子定食を注文するとき以外には、言葉を発していない気がする。今日はいつもよりいろいろなことを考えたなと思う日ほど実際に声に出している言葉の数は少なかったりするので、たぶん僕がひとりで考えることなんてこれっぽっちも社会的意味を持たないものなのだろうなということを強く感じる。でもそういう日ほど、こうやってキーボードをたたいてネット上に文字を打ち込む時間は増えていたりして、健全な人なら不健全と表現するのだろうなというような一日を過ごしていたりする。僕はどちらかというと比較的小さな頃からこうやってアルファベットや数字やよくわからない記号が印字されたボタンをひたすらに押し続けてきた人間で、古き良きインターネットの黎明期の最後のひとときを、かろうじて見てきた人間だ。2ちゃんねるはもっとずっと殺伐としていたしまとめサイトなんてものはなかった。誰に向けるでもないエモーショナルな文章がネット上にあふれていた時代だった。携帯電話は持っていなかったしスカイプなんていう便利なものもなかった(あるにはあったがそんなに普及していなかった)ので親のPCでメールアカウントを作ってもらってそれで友達とメールした。今思うと頭がおかしいけれど親のPCで必死に文面を考えてそれをキーボードに打ち込んで女の子に告白したことだってあった。あの頃はブラクラなんてものがあって一度うっかりクリックしてしまって焦ったものだ。兄はインストールしたフリーのゲームからPCをウイルス感染させて怒られていた。そのときから使っていたso-netのメールアドレスは大学時代まで使い続けたけれど、何かの拍子にログインできなくなってしまって、それ以降はGmailを使っている。いつか、どこかで、ふいにログインできたらきっと1ヶ月くらいかけても読みきれないくらいの大量のメールが届いていて、その大半は無価値なメルマガだったり今この瞬間の僕にはなんの意味も持たない大学やサークルに関わるメールだったりするんだろうなと思うけれど、もしかしたらだれか大切な人からの知らせが届いていたりするのかもしれないなと思うと、ちょっとごめんって思う。いつのまにか何もかもがそれとは気づかないうちに変わっていってしまうなと思う。数カ月ぶりに郵便受けを開けて中を見たら自分に有益な情報なんてひとつもなかった。昔は郵便受けは3日に一回くらいは、その頻度で律儀と言えるのかどうかはよくわからないけれどそれでも僕なりに律儀にどんな手紙やチラシが来ているのか確認をしていたけれど、最近はそういうことをぜんぜんしなくなった。当時から、家に帰ってくるたびに毎回郵便受けを確認する彼女のことをなんでそんなきっちりできるんだろうと不思議に思っていたけれど、年をとるにつれて自分がだんだん適当な人間になっていっているような気がしてくる。人間、そう簡単には変わらないというけれどそれはみんな人間がそう簡単に変わらない姿を見たいと思っているからであって、実際はけっこうな部分が変わっていっているのだろうなと思う。あ、でもこの文章を書きながら唐辛子をかじったらめちゃくちゃ辛くて悶絶しているんだけど、小学校のころ母親と一緒に行った近所のいい感じのイタリア料理屋でパスタについてた唐辛子をかじってその後数時間ダウンしていたのを思い出した。なんだ、あんまり変わってないじゃん、俺。そのほかに今日書き留めておくべきことといえば、朝食がコーヒーとヨーグルトだったこと、油断していたらゴミ回収車が来てしまってゴミを出せなかったこと、ゲームをしたこと、昼ごはんにとても久しぶりにカップ焼きそばを食べたこと、シャワーを浴びながら歌を歌ったこと、HEROの初期の再放送を見たこと、会社に行くとちゅうに知り合いに偶然あったこと、新橋に行くかどうか迷ってけっきょく行かないで家に帰ったこと、コンビニで飲み物を選んでいる途中に考えごとをしてしまってその場にたぶん3分くらい立ちすくんでしまったこと、キャベツをいろいろなものに着けたつまみを作ったこと、キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャンを観たこと、応援しているサッカーチームの試合を見ていること。いつかもっとちゃんとした大人になりたいと思っていること。そういうことを考えて胸がいっぱいになっているということ。