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日記など。

知らない場所

何も考えないこと、というのはとても難しいことだ。しかし、なにかを忘れてしまうことも多くなってしまった。夜寝る瞬間と朝起きた瞬間は、とりわけ、いろいろなことを考えてしまう。夜はベッドの上でねむいなーと思いながらも一日のことを思い出し、あいかわらず、そんなにいい一日とは言えないなあなんて思ったり、やり残した仕事を思い出してしまったり、とりあえず少しでもいい気持ちで眠ろうと、まったく別のことを考えようともがいてみたりする。朝起きると、昨晩なにを考えていたのか忘れてしまっていることが多くて、昨日の夜自分はなにをしていたんだろうと考えるところから始まる。徐々に現実に引き戻され、今日やらないといけないことを考え始める。

 

 

思えば、最近、やりたいこと、ではなくて、やらないといけないこと、ばかりを考えているような気がする。休日にだって現実がついて回る。掃除をしないと。洗濯をしないと。クリーニング屋にいかないと。運動しないと。あれを買わないと、これを買わないと。

 

 

そんなことばかり考えるのにいささか疲れ、連休の中日、予定がないことに気づき、今日はいちにちやりたいことをやろうと思った。やりたいことってなんだ。何もやらないことだ。知らない場所へ行って、なにも考えずに、ぼーっとすることだ。

 

 

 

電車を乗り継いで、房総半島の端まで行った。水田と渓谷と森の中をゆれながら走るローカル線に乗って、ときどきウトウトしながら、東京方面を目指した。遠くまで行って、違う道から戻ってくるだけの旅。なんのため?と聞かれても、答えることができない。ただ電車に乗っているだけの旅。

 

 

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時間はゆったりと流れていた。夏の日差しがジリジリと照り付けていたけれど、風がそよぐ景色は涼やかで、冷房の効いた電車の車内は涼しい。人が詰め込まれている東京の地下鉄の不快感もなく。ここには何もない。考えるべきこともなにもないし、何かを探してせわしなく歩き回る必要もない。ただ、電車に揺られていた。そんな時間、いつぶりだろう。気怠く、ぼんやりとした空気。繰り返し現れる、川と水田と森。空の青と、地上の緑のコントラストを眺めていると、なぜか懐かしさがあふれ出て、子供のころにタイムスリップしたような気分になった。人間の記憶なんて勝手なもので、自分はそれなりに都会と言えるところで育ったにも関わらず、こういう風景を見せられてしまうとすぐに日本の原風景だとかなんだとか言い出す。それがちょっと悔しいけれど、でも、その風景は掛け値なしに素晴らしいものだった。

 

 

ふたつのローカル線を乗り継いでJRの駅に近づくにつれて、だんだん、首都圏の街並みが戻ってくる。夕暮れに沈む、グロテスクな大都市を眺めながら、家に戻る帰りの電車は、少しくたびれた人が多かったように思う。僕と同じように、ちょっと郊外まで出かけた人が多かったのだろうか。そうだよね、やっぱり、みんなちょっとずつ、疲れているよね。電車に乗るのも疲れたなあと感じたくらいのタイミングで、最寄り駅まで近づいてくる。とても久しぶりに、駅前の商店街を歩いたような気がした。なんだか、何日もかかる旅に出ていたみたいだ。気分がよくなって近所の居酒屋に入ってみる。おいしい料理を食べて、家に帰って眠る。今日は、何も考えずに、眠りにつくことができた。明日もまた休み。だからといって平日のせわしなさが少しだって変わるわけでもないし、また平日が来たら、ぼーっとする時間なんてなくて常に頭を働かせないといけないんだろうけれど、少なくとも今日一日、いい一日を過ごすことができたなと思った。そんなことは、久しぶりだと思った。