gezellig

日記など。

if winter comes

季節は巡り驚くほど早く冬が来る。生温い空気がいつまで経っても過ぎ去らなかった秋が終わり、ようやく引き締まった緊張感のある空気が戻ってきた。こうしていつの間にか一年が終わるのだろう、そんなことを考えているうちに今年もあと3週間になった。

 

最近はバタバタしていて、ずっと何かを深く考えたりすることができていなかったなと思う。深夜、こうやってここ最近のできごとを振り返ってみると、自分がぜんぜん思考なんてしていませんでした、頭も心もからっぽのまま生きていましたと白状せざるをえないなということがわかってしまって、辛い。「日々弾力を失っていく心」という表現をどこかで聞いたことがある。当時はそんなふうになったら嫌だな、でもそれはそれでなんか都会っぽくていいのかもしれないな、かっこいい、なんてぼんやりと考えていたりしたけれど、ふと立ち止まってみると本当に、見事に、心が弾力を失っていってしまっているではないか。それは年をとるから当たり前だ、と言ってしまうこともできるかもしれない。思考力や感受性というのは脳細胞の動きがどれほど活発かという問題であり、ある時を境に人間の身体は成長を止め徐々に衰えていくということを考えると、何かを感じなくなってしまったり、何かを考えなくなってしまうことは、老いから来る当然の自然現象だと言うこともできるだろう。覚醒している間のぼんやりとした倦怠感に比例するように、夢の鮮明さが増していく。そこには喜怒哀楽がある。不完全な魂は真夜中、あてもなく意識の外側、あるいは奥深くをふらふらと放浪し、まるで自分がまっとうに生きているかのような感覚を味わうものの、けっきょくは捜し物を見つけることなく朝、現実に舞い戻る。

 

引っ越したことに伴って、色々なものを捨てて、本も最小限のものだけを残してあとは全部売るか捨てるかしてしまった。それは自分の中に蓄積していった知識だったり、物語だったり、経験だったりを、そこまで残しておく価値もないなと判断したということでもあり、いささか寂しい気持ちにもなる。人生は盛大な時間の浪費であり、これからも無駄なものを買い、無駄なものを知り、生きていくのだろうと思うと、うんざりを通り越してある種の諦めのような感情が生まれてくる。残しておくべきものはいったい何だろうか。本棚に残した本を眺めると、『イエイツ詩集』と『ムーミン谷の彗星』が並んでいて、ますます自分という存在がわからなくなる。これだけ長い間生きてきて、自分というものが何者なのかわからないというのも奇妙な話だ。ときどき、普通の人なら普通にできることが自分にはできないと感じることがあって、とても辛い。自分のことを説明するとか、普通に人と話すとか、別に何も気にせず生きるとか、そういうこと。それは自分を特別と思いたいがためのナルシシズムだろう、と言われればそれまでだけれど、息苦しさのような感覚というのは日々募っていく。

 

来年は変わるだろうか。年が明けたら、何かが変わるだろうか。住む場所を変えたところで、本質的に何かが変わるわけではないことはわかった。そんなことは、わかりきっていたはずだけれど。