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日記など。

死を望むということについて

まともに生きる、とはいったいどういうことであろうかと思いをめぐらせ、そういうことを考えているときはたいてい自分がまともに生きていると感じることができていないか、この先まともに生きていける気がしていないか、あるいはそのような生き方に対して嫌気がさしているかどれかだと思われる。自分は今、そのうちのどの状態だろうか。少なくとも「死にたい死にたい死にたい」とは繰り返し思っている気がする。

 

何か嫌なことがあったり、悶々と考えていることがあるとき、それを英語で口に出してみることが、よくある。大学に入るまで日本という国の外に出たことすら一度もなかったし、これまでもまともに勉強してきたとは言い難いけれど、どうやら自分には語学のセンスというものはあるらしく、勘所を押さえてそこそこに的確な英語を話すことができる。たどたどしくても、自分の考えを一通り、英語で話すということはできる。しかし、どこまでいっても英語は外国語だ。外国語で考え、話すというのは、日本語で考え、話すという行為と、まったく異なる行為だ。それは思考を正確に言語化できるか否かという問題だけではなく、自己というものをいかに定義するかという問題でもある。どのような自己を想定し、話すのかということだ。

 

英語で話すときは、日本語で話すのとでは異なったマインドセットが必要だ。大学時代に英語の授業を持っていたバイリンガルの日本人教師は、"When I speak in English, I speak in a different personality"と話していた。言語と、その言語が表現できる思考には、おそらくある程度の相関性はあると思われる。(言語によって思考が影響を受けるとする考え方は「言語相対論」と呼ぶらしい)

 

稚拙な英語を話す日本人の多くは、自己の思考をそのまま、一言一句違わず、英語で表現しようとする。しかし、そこに適切な英語の表現が見つからないため、スムーズに話すことができない。日本人にとって、いかにうまく英語を話すかという問題は、いかに自己の思考を要約し、抽象化し、普遍的かつシンプルな単語の連続として表現できるかという問題でもある。逆に言うと、ESL(English as a Second Language)話者にとっては、自己の思考や主張を簡略化する勇気こそが、英語上達の肝であるとも言えるのではないか、というのが大学に入って以降考えてきたことでもある。

 

日本語で、「死にたい」と感じることがある人は、多くいるだろう。僕もその一人で、頻繁に「死にたい」と感じている。それを英語にするとどうか。"I wanna die"になるだろうか。違う。"Life sucks"だ。そこには大きな差がある。"I wanna die"の場合は、「死」という結果を話者が明確に望んでいることが示唆されている。しかし、不思議なことに、日本語の「死にたい」は、必ずしも肉体的な死を望む表現ではない。

 

英語で表現をすることによって、自分が何を望んでいるのか、そして何を望んでいないのか、ということがわかる。もちろん、英語にも婉曲表現や、曖昧な思考を表現する方法はいくらでもある。しかし、僕のようなESLスピーカーにとっては、そういった表現は非常に難易度が高く、その感覚を100%理解するのは無謀に近い。だからこそ、僕のような人間が英語で話すとき、その表現はシンプルで簡略化されている。

 

僕は今日も"Life sucks"とつぶやいている。"I wanna die"とつぶやいたことは、まだない。そうやって、まだ大丈夫、少なくとも、もう少しは大丈夫、と自分に言い聞かせている。そう、それは普通のことなのだ、誰しもが、多かれ少なかれ、そう思っているのだ、自分が考えていることなんて、その程度のことなのだ、と、言い聞かせている。