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日記など。

日記20160528

ひとを肯定すること、まちがいや失敗も許すこと、そんなことを無理せずにさらりとできる大人になりたいなと、大人になりもう随分と経った今になってよく思う。大切に思う人に対してやさしくあることだったり、自分とまったく違った考え方や価値観を許容することだったり、そういうことに対するスキルが自分にはまったく備わっていないのだ、と、最近はよく思う。口先では多様な価値観を認めたい、価値観を同じにすることなんてできないんだからお互いを認め合えればそれでいい、と言うけれど、けっきょくこれまでの自分はなんとなく自分と同じような価値観を持った人に囲まれて、ぬくぬくと過ごしてきたんだなと、すこしだけ職場での立場が変わって、それと、すこしだけ、生き方そのものが変わって、まるで体験したことのないことばかりを体験している今、毎日毎日考え、そんなこと以外に何も考えられなくなるくらいにそればかり考えているけれど、結論も出ず、また同じ間違いをして、どうしたらいいかわからないのに、信頼できる友人であってもすべてを包み隠さず話すことが恐ろしい。いつも、強がって、自分を強く見せようとしてきた。自分の弱い部分を隠してしまい、ありのままの自分を見せるのがむずかしい。いつのまにか身体に染みついてしまったその子どもじみた高慢で、自分で自分の首を絞めている。そして、隠そうとすればするほど、ほんとうの自分の気持ちはわからなくなり、自分はいったいなにものなのだ、誰に対して見せている、どの自分がほんとうの自分なのだ、ひとりで部屋で唸りながら考えている自分が、ほんとうに、ほんとうの自分なのか、などというありきたりでくだらない思いが頭の中の空間を埋め尽くす。

 

 

つらいことというのは、つねにあるものだなと、これまでを振り返って思う。何もかもがすべてうまくいったことなんてあっただろうか。きっとないだろうな。いつもいつも、自分勝手に傷ついて、鬱々とした気持ちになって、それをできるかぎり、周りに見せないように生きてきた。自分の感じている絶望なんて薄っぺらいものだ、なんてことはわかっていて、だからこそ余計にめんどくさく、他人に愚痴ることができるものでもないなと考え、そういうときはこんなふうに文章を書いてきた。そして、なんとなく自分の気持ちや、行動をコントロールして、うまいこと生きることができてきた。それでもやっぱり、どこかで自分を認めてくれて、大変だね、でも大丈夫、心配ないよって言ってくれる人が、きっと自分には必要なんだと、できることならば自分自身がそういう存在でありたかったと思うようになってはじめて気づく。まいったな、何が大切なのか、路頭に迷う中で気づくことができそうになっているのに、そう思ったときにはいろんなことが手遅れになっていて、それをすぐに実践するにはあまりにも自分は不器用すぎるまま成長してしまっていて、傷ついたまま立ち尽くすしかない。人を守りたいとうたう歌が世の中には溢れていて、その気持ちが今までずっと理解できなかったけれど、やっと、この歳になって、その意味がわかりはじめてきたような気がする。目の前の相手を肯定することができるか。何があってもその人の味方になることができるか。自分にそうする覚悟があるか。そして、自分も同じように、そうされることができるか。相手を信頼できるか。そういうことなんだろうなって、今は思う。もしこの先、そういう人間関係を、誰かと築くことができなかったら、きっと後悔だらけの人生になってしまうんだろうなと、ぼんやりと思う。

 

 

それでも、自分は元気だ。誰よりもたくさん働くし、誰よりも仕事に対して深く考えるし、成長意欲も上昇志向もある。周りに負けたくない、成功してやりたい、と毎日強く思いながら働いている。そのほかのことが何ひとつうまくいかなくても、情熱を注げる仕事が目の前にある。重圧に潰れそうになることもあるけれど、負けない。それだけが今、自分の中のひとつの防衛線になっている。いつまでこんな状態が続くのかわからないし、そんなに悠長に問題を先延ばしにしている余裕もないのだけれど、今はそれで大丈夫。すべてうまくいくときが、きっと来る。