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日記など。

昼のビールと夕暮れ時

昔住んでいた部屋の最寄り駅には大きなスーパーがあって、そこには多種多様な酒が売ってあった。社会人になりたてで様々な刺激にいささか疲れていた僕は、金曜の夜の予定もそれほどに埋めることなく帰宅し、外を走ったりしてから眠り、土曜の朝起きるとスーパーに向かって食材と各地のビールを買い込み休日の昼から酒を口にした。今ほどクラフトビールなど流行っていなかった、少しだけ昔の話だ。真夏の強い日差しの中、汗をかきながら自転車を漕いでスーパーから帰ってきて飲むドイツやアメリカのビールは、爽やかな苦さと麦の香ばしい甘みに加えて、ほんの少しの罪悪感の味がして、それはそれはおいしかった。

 

 

会社に入って1年目のことがこんなにも昔に感じられることに驚く。あの頃は、という言葉はたとえば高校時代とか大学時代とか、もう少し昔のことを指して使う言葉だと思っていたけれど、今となってはあのうだるような暑さの夏も、ちょっと前の、立派な「あの頃」のできごとだ。

 

 

今と何が変わっただろうか。そういえばあの頃は、もっと夕日を見ていた気がする。昼から酒を飲み、少し昼寝をして、起きたらだいたい一日が無為に過ぎていっていることに気がつく。しょうがないので起き出して、顔を洗い、サンダルを履いてあてもなくふらふらと夕方の街をさまよう。橙や紫に染まっていくカラフルな街を眺めて、ちょっと立ち止まって、もんもんと悩んで、すぐにどうでもよくなって、そうやって休日の午後の時間は過ぎていった。沈む夕日よりも、変わっていく街の色が好きだった。そんなに高いビルがある街ではなかったけど、東京の夕日はすぐに建物の裏側に沈んでしまう。だから、夕日そのものを見ることではなくて、青く変わって一瞬赤く光るあの時間に身を委ねることが、気持ちよかった。

 

 

あそこらへんの土地はのどかでおだやかで、きちっとした感じはなくてちょっとしただらしなさがあって、通勤や遊びを考えたらお世辞にもいい立地とは言えなかったけれど、その適当さ加減がとても心地よかったことを覚えている。そこには大学を卒業する前と社会人になってから少しの間の、ほんの短い期間しか住むことなく、単調な生活の中で貯まったはした金を僕は引っ越し資金につぎ込んでしまった。写真をとったり文章を書いたり、というのを意識するようになったのは引っ越しをした後だから、当時の写真も残っていなければ、ほんとうはどんな気持ちで日々を過ごしていたのかを知るすべもない。あの頃は夕ご飯はどんなものを食べていたっけ。どんな場所に出かけていたっけ。どんなことを感じていたっけ。くっきりとした記憶は消えてしまっている。でも言えるのは、その後住んだ街も、今住んでいる街も、とても好きだけれど、人生が大きく変わった瞬間を過ごしたあの街はやはり今でも特別だということ。見栄えのいい景色も気持ちのいい散歩道すらなかったけれど、夕日に染まる道を車が行き交う様子と、そのとき感じた心地よさは、きっとぼんやりとした形のままこの先もずっと記憶に残っていくのだろう。

 

 

長い休みをとってアテネエーゲ海に浮かぶ島々を訪ねてきた。海と遺跡と夕日を見る旅だ。日没の日没前後の一時間から一時間半程度を、夕日の見える場所で過ごした。贅沢な時間の使い方だ。そういえばあの頃も、夕暮れ時をもっとのんびりと過ごしていたっけ。目の前に広がる絶景と、あのしみったれた風景は、それこそ雲泥の差かもしれないけれど、あの頃の夕日だってきっとちゃんと美しかったんだ。

 

 

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広い世界の美しさに触れることの意味は、日常の小さな世界の中にもどこかで確かに息づく美しさを、見過ごしてしまわないように暮らしていくことの大切さを気づかせてくれることにもある。最近はそんなことを思うし、そう思えるようになったことを嬉しく思う。