gezellig

日記など。

enclosed utopia

新幹線の車窓から見える、何の面白みもない平野の風景に、薄い雲に隠れながら沈んでいく夕日の淡い光が差し込む。平野は険しい山々で途切れ、山の向こうには分厚い雲が立ち込めているのが見える。

 

トンネルに入ってしまえば外の景色は見えないし、携帯電話も通じない。ぼんやりとしていると、誰もが知っている小説に描かれたそのままの風景が広がる。国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。

 

開かれた平野のイメージと、暗く雪深い、山と海に挟まれた土地のイメージ。自由と束縛のイメージといってしまうのは大げさかもしれないけれど、それはなんとなく自分が東京と故郷に対して抱いているイメージと重なって、変に感慨深い気持ちになる。

 

久しぶりにある程度ゆっくりと帰省した地元では、市街地には若者向けの新しいファッションビルが建築される一方で、郊外型の大型ショッピングモールが家族連れの人々の休日の行き先になっているようだった。広い駐車場を備えて、スーパーも洋服店も電気屋も本屋も、何もかもが一緒になった空間。小さな子供たちが何かほしければ必ず連れていかれる場所。きっと、これからここで生まれ育つ子供たちは、それがごく普通の日常になって、大きくなっていく。そうして育った子供たちは、刺激を求めて街へ繰り出していく。彼らは大人になって、家庭を持ったら、また郊外へ戻っていく。

 

それは、僕よりも上の世代が感じている、「地方」と「都会」の対比のイメージそのままなのではないか。満ち足りているけれど、実は限定的で閉塞的な空間。そして多くの刺激が溢れたせわしない空間。もちろんこれは僕の地元という限定的な話になってしまうのかもしれないけれど、たぶん今、多くの人が「地方」と「都会」と聞いて感じるような対比構造の縮図が、「地方」の中にできつつある。

 

生き方に正解はない。でも、帰ってくるたびに、この地方の中で幸せに暮らす人たちの姿が、嫌でも目に入ってくる。そうすると、何の疑問も抱かずに東京の大学に進学して東京の会社で働いている自分が、本当にやりたいことをやれているのか、ほんの少しだけわからなくなって、ほんの少しだけ混乱する。

 

それでも、不思議と「地元に帰りたい」とは思わない。これは、「色々な人生を生きる人たちがいる。その中で、自分は何を選び、どう生きるか?」という問いなのだ、と思う。多様な価値観に触れたとき、自分の価値観は揺さぶられる。その中で悩み、自分なりの信念だとか、個性だとかが生まれてくる。だから、自分は自分にできることをやろう、と、ぼんやりと考えて、今回の帰省も終わっていく。

 

明日朝早い電車で東京に帰る。もうすっかり、「帰る」という言葉がしっくりくるようになってしまった。もう少しだけ休んだら、また仕事が始まる。

 

今年もまたたくさんのうれしいことがあって、たくさんの嫌なことがあるだろう。その一つ一つの瞬間を、大事にしていきたい。