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日記など。

変化と鈍感さについて

ぬるりと生暖かく湿った風が10月になっても吹いていて、夕方の薄暗がりの部屋では季節外れの扇風機が今もせっせと羽根を回している。

 

働く場所を変え、外国で少し長く時間を過ごし、日本に戻って、左手の薬指のリングの異物感にそわそわして、駅前の建設中のビルは立派な外見にできあがり、部屋には緑が増えて大きなテレビがやってきた。何かが大きく変わったようで、でも振り返ってみると変わったような感覚もない。季節の変わり目をなかなか感じられない中で、生活の変化にも鈍感になっているのかもしれない。

 

 

最近は自分の身の回りの変化には鈍感なのに、ふとした瞬間によく季節の移り変わりのことを考えている。東京の夏に吹く風と、カリフォルニアの夏に吹く風は別の風だった。東京オリンピックを1年後に控えた今年の東京は身の危険を感じるような暑さで、10月になっても後遺症が残っているような空気だ。日程や天候の問題で今年の夏と秋はあまり山で時間を過ごすことができず、少しフラストレーションを感じながら過ごしている。10月は海外を旅して、日本に戻ってきたらきっとこの暑さも少し和らいで、秋が深まっていくはずだ。そしたら山には人が減って、静かな冬の山をじっくりとひとりで歩いて、温泉が気持ち良い季節が来る。東京の冬も悪くない。自分の生活に軸のようなものができあがると、その軸がぶれずに日々が過ぎていく限りは、その軸よりも外側にある色々な事象の変化を感じとる感覚が研ぎ澄まされていくのかもしれない。そういう意味では穏やかで平凡な日々も悪くないなと思う。

 

 

日常の中にも、小さな変化は日々起こって、そんな変化にもうまく対処していくことができるようになると良いなと思う。たとえば誰かと生きていく生活の中で、ふとした瞬間訪れる、ひとりの時間をどう過ごすのかは難しい。山に行ったり仕事で家を空けていればそれははっきりとしたひとりの時間だけれど、日常の中のちょっとしたひとりの時間をどう過ごすのか、ということだ。共に過ごす時間を待ち望みすぎるのも心臓に悪いし、ひとりの時間を待ち望んで楽しもうとしたってその時間は限られていて逆に不満が溜まるかもしれない。ほどよく穏やかな気持ちで、ひとりでいる時間とそうでない時間の境目が曖昧になるくらいがちょうど良い。切り替わるのではなく、ゆるやかに移ろいゆく。まだまだそんなちょうど良い感覚で過ごすことはできていないなと感じる。今日はひとりになってなんとなく休日の黄昏の中で長い文章でも書いてみたくなった。きっと子供を持てばこんな過ごし方はなかなかできなくなるんだろうなと思う。部屋でひとりで過ごす、というのは実は今しかできない贅沢な時間の使い方なのかもしれない。もっと本を読もう。音楽を聞こう。ゆるやかに時間が流れていくように。

 

 

そんなことを思えるということは、きっと様々な刺激を感じながら生きることができているということなんだろうなと思う。何かが変わったり、変わらなかったり。それを感じとったり、感じとらなかったり。何もかもを鋭利な感覚で感じとる必要はない。でも確かに何かが変わることは感じている。それはきっと、今の生き方が間違っていないということなのだろうと思う。