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日記など。

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実家の母親に連絡をとって、荷物を送るよう頼んだ。土曜の夜8時から9時の時間で送ったという短いメールが来た。

 

 

その時間、外で飲んでいることが多いとか、仮にそれが平日だとしたらまだ会社で働いていることが多いとか、そういう感覚を持ってもらうのは無理だろうなと思う。自分の生活に対する感覚は、両親が持つそれとは年々ずれていってしまい、このまま東京でひとりで暮らしているうちはその溝は深まる一方なのだろうと思う。

 

 

人間が無意識的に抱く感覚というのは、そう簡単に消えるものではない。最近、昔抱いていた感覚がふとした瞬間に蘇ることがあったりして、20数年続けてきた新陳代謝の中で古いものは忘れたり、消え去ったりするものだと思っていたけれど、意外とそうでもないんだということを考えたりした。染みついた過去は、それがよいものであれ、悪いものであれ、簡単に消えるものではない。

 

 

 

ブーツを履いて、ストックを握り、スキー板にブーツをはめる。懐かしい感覚。雪山を滑るのはほとんど10年ぶりだ。足に力を込めて進みだす。リフトに向かう。難なく乗れる。山頂についたら滑り出す。ややぎこちないのは、久しぶりすぎるせいか、レンタルで傷んだ板のせいか。それでも、少しだけ滑ったらすぐに思い出す。幼いころに身に着けた感覚というのはそう簡単に失われるものではない。風を切って、昔よりもさらに増えたボーダーの間をすり抜けながら、滑る。頬にまだ冬を感じさせる空気があたり、心地よい。

 

 

 

筋肉と骨の動きを伴う身体的感覚は、より曖昧な視覚や嗅覚といったものよりも、どうやら深く身体に刻み込まれるもののようだ。久しぶりに泳いでみたり、スキーをしてみたり、あるいは普段フットサルばかりしている中で、11人制のサッカーをしてみたりすると、そういったことがわかる。

 

 

長さや重さといった、単位で表現することの可能なものごとは、より人間の感覚を刺激しやすく、懐かしさや既視感を抱かせやすい。例えば恋人や昔の恋人と同じくらいの背格好の女の子と向き合ったりすると、ちょっとドキッとしたりする。センチメートルという単位で表される身長差という具体的な数値が呼び起こす感覚だ。これが、ただ恋人に似ているというだけでは、実はあまり心が動かなかったりするので不思議だ。

 

 

懐かしい景色を見ても懐かしいと感じるだけだけれど、懐かしいことをやってみるとただ懐かしいだけではなくて、蘇った感覚、思い出した動作ががすぐに自分自身のものとなる。しかし、懐かしいものを見ることも、懐かしいことをすることも、過去の経験を現在の自身の感覚から再生成しているにすぎない。同じ動作をしていたり、同じ風景を見ていたとしても、それを感じる自分は昔とは違う人間になっている。それがこの世界の物理法則の中で生きる、人間の宿命だ。すべてのものは、移ろい、変わっていく。

 

 

僕が母親の年齢になったら、夜の8時や9時は、あたりまえに家にいるものだと思うようになるのだろうか。これから家庭を築き、子供の世話をして、年老いていったら、若い頃のハードな毎日も、次第に忘れていくのだろうか。身体の衰えには抗えない。同じ経験を同じ感覚でできるのは、今しかない。今をどう生きるか。どう生きていくか。どう死んでいくか。

 

 

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久しぶりの雪景色。夜の中央線。近づく春。