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日記など。

夢と夏

寝不足の日々がようやく終わり、六本木のカラオケで朝まで遊んでからタクシーで家に帰った。おなかが減っていたけどしっかりとしたご飯を食べる気力はなく、アイスを急いでかじってベッドに横になる。クーラーも付いている。何もかも忘れた深い眠りについて目覚めたのが17時。夏の一日が終わろうとしていた。ひとまずシャワーを浴びながら風呂掃除をして、洗濯機を回し、近所の商店街までクリーニングに出していたシャツを取りに行き、朝食みたいなご飯をコンビニで買って食べて、もう一度横になってダラダラと携帯の画面を眺める。ネットで夏の夕暮れの画像を見かけたら、実際にそこにいるわけでもないのに、なんだか切ない気持ちになって、福山雅治の「ひまわり」をかけた。懐かしい音。窓を開けたらじとっと肌にまとわりつく、むせかえるように濃密な東京の夏の空気が漂っていた。

 

 

寝不足の原因は先週末のフジロックだ。月曜の朝からどうしても外せない会議があったため、金曜日の夜に近くまで移動し日曜の夕方まで楽しんだ。新幹線に乗るためにRIDEとノエル・ギャラガーを諦めないといけなかったのは本当に残念だったけれど、夢の中にいるような二日間だった。雨も降らず、日差しは強く肌をジリジリと焼いていったけれど、何杯もビールを飲み僕らは音楽に身体を揺らした。4時間しか眠らずに二日目に向かってまた朝から楽しんだ。こんな楽しみ方は若くないとできないな、と思いながら会場を歩き回った。

 

 

夢はいつか終わり、現実が目の前に現れる。東京駅で脱ぎ捨てたスーツをピックアップして家に向かい、興奮冷めやらぬまま眠ったら次の一週間が始まる。この一週間はとにかく大変なことが多くて、僕にしては珍しくイライラすることも多かった。睡眠時間も削られ、毎日ふらふらになりながらもどこかハイテンションなまま乗り切った一週間だった。外国人から見ると日本人はアル中に見えるとよく言うけどどうだろう。海外にも酔っ払って騒ぎを起こすクソ野郎はたくさんいたような気がするけれど、確かに日本の居酒屋のように際限なく酒が提供され続けるような場はあまりないのかもしれない。

 

 

カラオケで、一人ひとりがテーマを出してそれに沿った歌を選んで歌うというのをやった。「朝、会社に行きたくないときの歌」というテーマで、みんながテンションが上がるような曲を歌う中で、僕は斉藤和義の「歩いて帰ろう」を選び、「嘘でごまかして すごしてしまえば 頼みもしないのに 同じような朝が来る」と歌っていた。あれ、そういうことじゃない?こういう気持ちって誰もが持っているような気がしていたけれど、意外と少数派なのか?とか思ったりしたけれどまぁそれでもいいや。

 

 

夏というのはなんと厄介な季節なのだろう。こんなにも暑く、冷房の効いた室内から外に出るのなんてほんとうは億劫に感じるはずなのに、人はみな、なぜか太陽の光が降り注ぐ空間に向かう。風景は四季折々、趣があるはずなのに、なぜか夏の風景は郷愁の念と結びつく。思い出という言葉ともっとも相性が良いのは夏だ。日本の夏は、長いようで短い。その間に人々は踊り、騒ぎ、戻ることのできない瞬間を心に刻んでいく。8月という特別な月に、単純で愚かな人間であることに、喜びを覚えようと思った。

 

 

街に夏を探しに行った。東京の夏はどこにある。今自分が見ているものは夏の風景だろうか。うだるような暑さの見知らぬ街の商店街は人の姿もまばらだ。汗が灰色のTシャツを濡らして黒い染みを作った。いつか真夏の東京を必死に駆けまわった記憶が思い出になる日が来るのだろうか。それとも結局は海だったり花火だったり、冷房の効いていない夏休みの教室だったり、遮るものの何もない日差しを受けてカラカラに乾いたグラウンドだったり、そういったものがいつまでも、亡霊のように、薄まることなく夏の記憶として自分の中に居座り続けるのだろうか。ただただ気温と湿度だけが高い街の姿をこれが東京の夏ですと見せられたところでその風景にリアリティはなく、僕の夏はここにはないと思うけれど、だからといって今すぐに海に向かって海岸線から花火を眺めたとしたってそれはきっと取り繕われた大人の夏の休日にしかならないんだろうなと、少し悲しい気持ちになる。

 

 

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思い出には残らないかもしれないから、写真には残しておいた。それでも少しでも、記憶に残るように、自分の住む街が夜の淵に沈んでいこうとする姿をただただ眺めていた。その色を覚えておこうと。