gezellig

日記など。

世田谷区の話

ハロウィンの渋谷は馬鹿げた服装の若者で溢れかえっていて、山手線のホームではJRの職員が改札から出るまで10分かかることもあるといううんざりとした事実をうんざりとした顔で伝えている。僕は逆方向の電車に乗り込み、死んだ顔で先ほどの数時間の間で撮った物件の写真をぼんやりと眺めていた。

 

 

何かに向かって進んでいる感覚が欲しい。自分が何かを決めているという感覚。自分で何かを変えているという感覚。不意に、今の自分にはそんな感覚が欠けていると思うようになってしまった。部屋は古くそこまで広くもないけれど、友人や恋人にも恵まれ満ち足りた生活。万事快調とは言えないまでもそれなりに軌道に乗った仕事。レールに乗っていけば、普通に幸せで、それでいて刺激も感じられるような生活がこの先も待っているのだろうなとは思う。

 

 

週末ですべてを忘れて夜遅くまで起きて、少しだけ眠ってどんよりとした表情で会社に向かう月曜。スケジューラーを開いて今週の予定を確認し、「この日はなかなか帰れなそうだな」とか、「この日、この客先に向かう電車の中で寝れそうだな」とか、そんなくだらないことを考えている。毎日「普通」の時間に帰って「普通」の時間に寝ることができていれば、そんなこと考えなくたって、「普通」に仕事をして、「普通」に生活することができるはずだけど、そう簡単にはいかない。たまに帰り道に空を見上げる。たいてい星はきれいに見えなくて、星のないのっぺりとした空はまるで黒く塗られたコンクリートの壁を眺めているようだ。陽はまた昇る、と言うけれど、そうじゃない。陽はいつまでも昇ってほしくない。朝になってほしくない。そんなふうに思いながら日々を過ごしている。でもそんな生活が続いていくとそれすらもどこか心地よくなってしまって、そんなものを望んていたわけではないはずなのに、まるでそれを自分が心の底から望んでいたかのように思い込んでしまう。人は自分に都合のいい事実を、自分ででっち上げてしまう生き物で、僕もそんな人間の一個体に過ぎないのだから。

 

 

このままではいけない、と思って新しい部屋を探し始めた。どこに?そんなの考えている余裕はない。間違いのない場所。間違いのない間取り。間違いのない家賃。ユナイテッドアローズとかシップスとかアーバンリサーチとかで服買っておけばまぁそんなに外れることはないだろうとかそういうのと似ている。いいねその服どこで買ったの。別に普通にアローズだよ、2万円くらいだし。同じようなものをもっと安い値段で売る店なんていくらでもあるのに。「○○を着ていたら/聴いていたら/食べていたら/飲んでいたらおしゃれ」というような時代は過ぎ去ったようで過ぎ去っていない。すくなくとも、それをやっておけば無難というようなノームはそのときどきでやはり色濃く現れてくるものであり、そういうのに追従するのが一番体力を使わなくて済むのである。わかりやすく承認欲求を満たすためには実より名が重要であり、北千住に済むより恵比寿に住んだほうが良くて、駒場東大前に済むよりは中目黒に住んだほうが良くて、とか、そういうこと。どこ住んでるの。麻布十番。えーおしゃれ。ふざけんな。今例を上げたところに住もうとしているわけではないけれど。

 

 

ともかく衝動だろうがなんだろうが自分で何かを決めるという感覚が非常に重要であり、なぜならそれは自分がいっぱしの人間になったような気になれるから。忙しいふりをしていても実はサボりながら仕事をして、真面目に考えるべきことを後のばしにして、アルコールの助けがなければやっていけないような状態で、それだって嘘でアルコールの助けがなければやっていけないふりをしているだけで、別にパイント・オブ・ギネスじゃなくても小枝をサクサク口に運んだり家系ラーメンにニンニクを入れて啜るだけでも満足できるはずなのに、そんなことを考え始めると自分はまっとうに生きたいふりをして本当は死にたいんじゃないかとか、死にたいけどそれは死にたいふりをしているだけでそれはまっとうに生きたいという悲痛な心の叫びの裏返しなのではないかとか考え始めることになり、ああもうとめどなく考えは脳だけでなく心を侵食して、黒く蝕んでいくけれど、とりあえずニンニク入りの家系ラーメンを食べた後に小枝をつまみにして350ml・オブ・ギネスを飲む。やり直せるとしたらどこからやり直すだろうか。でもやり直すことなんてできないから、とりあえず前に進んでいるふりをして、前に進んでいる感覚を一番手っ取り早く掴むには転職するか結婚するか住む場所を変えるかしかないんだけど、前者2つはあまりにも体力がかかりすぎて無理なので住む場所を変えることにする。イージーな選択だ。でもお金がかかる?知ったことか。マイナスにならなきゃなんだっていい。なんならマイナスになって何が悪い。でもこれだって、衝動的に生きているふりがしたいだけなのでは?

 

 

自分が今一番やりたいことはなんだろうか。自分がやっていることはどれも、自分がやりたいことではないような気がしてくる。そんな違和感を抱えたまま、この先ずっと生きていくのだろうか。それが普通なのだろうか。普通というのはなんだろうか。新垣結衣より小松菜奈が好きだけど、小松菜奈を好きでいるというのは体力をつかうことだ。新垣結衣は知っているけれど小松菜奈は知らないという人はたくさんいるけれど、逆はいない。スタンダードではない。小松菜奈を好きというと「なるほどね」という反応が帰ってくるけれど新垣結衣を好きだといってそりゃそうだろ、男はみんな新垣結衣が好きだよ、無難なことばっか言ってんじゃねえよって会話が生まれることのほうが、実は何倍も人として建設的だ。

 

建設的でない生き方をするというのは、なんと疲れることなのだろう。普通でありたいという気持ちと、同時に普通であってたまるものかという気持ちが混在するのはどういうことなのだろう。今自分は普通なのだろうか。自分はどこへ向かっているのだろうか。