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gezellig

日記など。

someone, somewhere cares

すっかり寒くなり引き締まった空気は心地よく、週の中日の祝日にたいした予定もなく寝て家事をして結局仕事をしたりして過ごした。会社の近くのジムで汗を流して家路につく。休日の赤坂は好きだ。オフィスが立ち並ぶここ一帯はおいしいご飯とお酒を出すお店も多いけれど休日にぶらぶらとするような街ではない。だから人はまばらだけど、休みの日にここにいる人たちは、ちゃんと用事があってここにいてそれはとても素敵なことなのではないかと思う。そんな場所をひとりで特にあてもなく歩くのはなんだか少し贅沢な気分になる。

 

 

ええと、そうだ、ここ最近のことを思い出そう。春があって、夏があって、秋があった。気が付けば今年もあと2か月で終わる。何が変わって、何が変わっていないだろうか。何もかもが変わってしまったような気もするし、変わったことなど何もないような気もする。

 

 

この街に住み始めて1年が過ぎた。平日は眠りに帰るだけで、少し時間ができたときも外で飲み歩いたりすることも多いことからか、未だにどこか、部屋に入るたびに、新鮮な気持ちになる。これが本当にぼくの部屋だったっけ。ぼくは本当にここで生きているのだったっけ。昔よりも、誰かと時間を過ごすことや、誰かを部屋に入れることに抵抗が少なくなって、ひとりで居たいと思うことが少なくなった。いろいろな人と関わりながら仕事をしているのに、仕事を離れても誰かと居たいと思うということはどういうことなんだろうな。昔だったらせめて、一日中人と接したあとは、ひとりで居たいと思っていたけれど、そういったことがなくなった。それは寂しいという感情とも違って何かへの依存がないと自我が保てなくなっているということなのか、もしそうだとしたらそれは由々しき事態であってどこかにメスを入れなければいけないのだろうな、でも心のどこかにメスを入れた途端にまたどこか心の別の部分にいるじぶんが「そっちじゃないよ」と声を上げ、開いた切り口からダラダラと血が流れるのをただ呆然と眺めることになりそうで、そんな曖昧で輪郭がつかめない心の姿に当惑する。

 

 

過去の記憶は消すことはできないが薄れていくことはある。全体としてはぼんやりとした記憶になっているできごとも、その中の、切り取られた一部分だけが尖った記憶となっていく。あのとき、この部屋で感じた、あの感情。眼に入ってきたあの色。あの形。あの表情。耳に入る声。匂い。喜び。痛み。快楽。苦痛。最近は起こったことを一連のつながったできごととして記憶しておくことが億劫なのか、静止画のような記憶が積み重なって、ランダムで再生するスライドショーのように脈絡もなく次から次へとフラッシュバックしてくることが多い。最近のことはどうだろう。とても最近のことなのにすでに色褪せてしまった記憶や、随分と前のことなのに未だに鮮明に焼き付いた記憶、そして覚えていたことすら忘れていたとりとめのない、無数の、日常の記憶が複雑に折り重なったその色は、全体としてはぼやけていて、しかしときとして、ある一点の鮮やかな色が強烈な存在感を放っていたりする。これは狂気だろうか、平穏だろうか。半年や一年という期間は一言で形容するにはいささか長すぎる。急にいろいろなことを思い出そうとすると、疲れてしまうものだな。こうやって、思い出すことが減って、覚えることも減って、いつのまにか何かを失うことも得ることもどちらにも気づかないまま日常が進んでいく。

 

 

外に出て、冷たい風に当たりながら雲の合間に見える星の弱々しい光を探した。この辺にはちょっとした林があって、少し前までは、虫の鳴き声がうるさいくらいだったけれど、今は微かに、数匹が鳴くだけだ。数ヶ月に一本しか吸わない、煙草に火をつけてみる。煙を吸って吐き出し、何かを思い出そうとしてみる。こういうときに楽しい思い出は、なかなか浮かんでこないものだな。良くない思い出が蘇ってきて、やはり人生はクソだと、思ってしまう。いつものことだ。冬が来る。眠りにつけば、冬にまた一歩近づいた朝がやってきて、仕事があり、夜がある。部屋に戻ろうとする。ここがぼくの居場所なのだっけ。今ぼくはどこにいる。明日のじぶんはどこにいる。