gezellig

日記など。

長い旅

気がついたらまた暖かくなって、またひとつ冬が終わって、僕はどうやら花粉症になったようだ。鼻にむずがゆさを覚えながらも、一歩一歩を確かめながら、夕暮れの東京の街を走る。休みをとって、眠りすぎた結果、鈍った身体の中に血が巡る感覚が心地よい。まだまだ、こうやって何の不自由もなく身体を動かせることのありがたさを感じるとともに、それでも年々、筋肉はしなやかさを失い、脚の運びは少しずつ鈍くなることにも同時に気付かされる。

 

 

人生を選ぶ、というのはどういうことだろう。トレインスポッティングレントンは言った。"Choose life"と。人生を選ぶことを拒否し怠惰な生活を続けていた彼は、物語の最後にようやく自らの意志で、人生を選びとる。しかし、その選択は彼を幸せにしたとは言い難い。結局彼は、過去の友人からは遠く離れ、彼の忌み嫌った「普通の」人生を送ることとなったが、その人生もどうやら順風満帆にいっていたわけではなさそうだ…という様子はトレインスポッティングの20年後を描くT2で映し出されている。

 

 

責任をとる、というのはどういうことだろう。30も近くなり、周りの友人はどんどん結婚していく。なんとなく面倒で避けてしまっている地元に久しぶりに帰ったりすると、自分の親がまさにそうしてきたように、地元で結婚し、家庭を持ち、子を育てる、という人生を送る友人を目の当たりにすることになる。彼らは、自分だけではなく、共に時間を過ごす家族に責任を持つことになる。そんな彼らが、僕の目には、とても眩しく映る。

 

 

今の日本は、レールから外れたときに、戻ってくるのがとても難しい社会だ。だからどこかで自分も腹をくくらないといけないのだろう。レールの上で、まっとうに、生きていくのだと。東京で働き、家庭を持ち、家族を愛し、子を育て、財を成し、老後に備え、家を買う。しかしこれが本当に当たり前なのだろうか。地元の友人たちにとって、あるいは地方で暮らすことを決めた大学以降の友人たちにとってみれば、東京でそのような生き方をすることなど非合理の固まりのように映るのかもしれない。そんなふうにできるのは、一部の人だけのはずなのに、いつのまにかそれが当たり前のように考え、そう考えること息苦しさを感じたりもする。かといって自分はどこに行きたいのだろうか。好きな場所はどこなんだっけ。

 

 

たとえば、突然、長い旅に出て、好きな場所を見つけて、そこにちょっと休憩するみたいな感覚で、住み着いてしまうことができたら楽なのかもしれないな、と思う。しかし、今の自分にそんなことができるだろうか。レールから外れることができるだろうか。自分の人生を、そのような形で選べるだろうか。ひとりで生きているわけではないという、その責任と天秤にかけて、それでも旅に出たいなどと、言えるだろうか。

 

 

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きっと、人はいつも、それぞれの光を捜し求める長い旅の途上なのだ - 星野道夫

 

そう、こうして更けていく東京の夜の風を感じている、今この瞬間だって。