gezellig

日記など。

トレイルにて

穏やかな日々だ。暖かく、清潔で、明るく、適度に広い、東京の真ん中にほど近い場所にあるマンションの10階にある部屋からは、日が昇って街が橙色に輝いたり、日が沈んで紫色に染まっていく様子がよく見える。それほど混雑が深刻ではない地下鉄の路線を使えるようになったことで、悪態をつきながら満員電車に乗って消耗することも減った。閑静な住宅街という言葉が適切かどうかはわからないが、猥雑な商店街は周りに少なく、数件ある居酒屋や中華料理屋なんかも23時にはだいたい閉まってしまう。会社から終電に乗ってボロボロになりながら三軒茶屋に辿り着いて狭いラーメン屋でラーメンを啜ったり、帰り道にある24時間営業のスーパーに寄って食材を買って日付が変わるころにビールを飲みながら唐突にカレーを作り始めたり、なんていうこともなくなった。自宅にたどり着くまでにエレベーターに乗らないといけないことなんて初めてだ。通りに面した1階にあった前の家は、玄関の扉を開けたらすぐそこには自転車が停めてあって、いつでも好きなときに走り出すことができた。今、僕の自転車は、自転車が整然と並ぶマンションの駐輪場にきちんと置いてある。

 

10年近く、一人で暮らした。その中で何度か引っ越しもして、いくつかの街に住んだ。そのそれぞれに味があって、お気に入りの場所が見つかった。部屋はきれいにしようと思いつつも、たまに乱雑になってしまい、男臭い匂いが漂ってしまっていただろう。いつからか家で酒を飲むことも日常的になって、そんなことに金を使わなければ今頃もっと貯金があったかもしれないな、とふとした瞬間に思ったりするが、なにはともあれ激動で、刺激的で、いつも酩酊状態で過ごしているような日々だった。もちろん、酒を飲むのは夜だけだけど、思い返すといつも葛藤し、ギリギリで、頭の中に靄がかかったような日々だったように感じる。

 

一人で暮らす自由さにすっかり慣れてしまった僕にとってこの1年間は、そんな頭の中の靄を晴らすような日々だった。きちんと生きることは楽しいけれどとても難しい。特に自分のようないい加減で、自分勝手な人間にとって、自分以外の人のことを気にしながら、ちゃんとした生活を送っていくというのは、どうやらとても難易度の高いことのようだ。それは頭が鍛えられ、こなすことで成長を感じられることではあるし、不自由だとか息苦しいとか言うつもりはまったくないけれど、それでもやはりどこかで自分をリセットし、最大限の自由を感じる瞬間というのが必要だ。

 

 

答えは山にあった。なるべく身軽になるように荷物をパッキングして、山を歩いたり走ったりする。鍛えたいと思ってやっているわけじゃない。苦しい思いを積極的にしたいと思っているわけでもない。ただ僕は、人里離れた山々を、誰にも縛られることなく、走りたいときに走って、歩きたいときに歩いて、休みたいときに休みたいのだ。

 

 

だからどうやら、僕は山頂を目指し上下に移動していくいわゆるピークハントというものよりも、どうやら水平に移動することの方が好きなようだ。ある夏の北アルプス常念岳から大天井岳、燕岳と稜線を歩く日本で最も人気の登山ルートの一つである表銀座を歩いた。美しい登山道を登り切って辿り着いた乗越の小屋から眺める百名山常念岳雄大だったけれど、苦労して急坂を登っていくより風を感じながら稜線を歩きたくなって、頂上を目指すことなく先に進んだ。大天井岳はもっと楽に頂上まで行けそうだったけれど、新調したテントの中の居心地がよくて、簡単な昼食兼夕食を作ってビールを飲んでいるうちに、どうでもよくなってしまった。山並みを眺めながら、横に移動するのが好きなのだ。素晴らしい名山の頂上をスルーしてしまうことにもったいなさや、若干の罪悪感も感じてしまうけれど、でも頂上に登らないといけないって誰が決めた?この雄大大自然を一歩ずつ進んで、携帯もつながらない、誰にも邪魔されないテント場で、何もせずぼーっとすることだって、立派な山の楽しみ方なのではないか。

 

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あのときにどうやら、僕なりの山の楽しみ方というのがわかったような気がする。そのあとはそんな楽しみ方のできそうな、なるべく水平に長く、遠くまで歩いたり走ったりできるコースを探して、ちょくちょく出かけている。南から北まで移動した八ヶ岳では、苔むした沢沿いの道からとんがった山頂、そしてまるで絵本の世界のような、静かで美しい湖など、飽きることのない山歩きをすることができた。

 

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山にいるということはある程度の不衛生や不便を受け入れるということだ。泥を踏んでしまったりすることもあるし、テントで泊まったら当然シャワーなんて浴びることはできない。汗を吸った服を続けて着なければならない。トイレのそばに手を洗える水場があるとは限らない。限られた食料をどう食べていくか考えたり、ときには雨風にさらされ寒さに震えることもある。15キロの荷物を背負うことなど、日常生活では考えられない。登山口に向かうバスは数時間に一本しかないかもしれない。ヘッドライトがないとまともに歩けないこともある。普段の快適な生活からのギャップはとても激しい。あれ、自由になりたいって言いながら、山で過ごす時間って実はとても不自由なんじゃないの?とたまに思ったりするけど、気にしない。大切なのは気にしないことだ。日常生活で「気にしない」という選択をとると、自分の心が死ぬか誰かに不快な思いをさせるかどちらかだが、山では自分一人にしか迷惑はかからない。きっと、それが自由ということなのだろうな。そんなことを、朝日に照らし出された南アルプスのどっしりとした山並みを眺めながら思ったりした。

 

 

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もっと長い距離を、もっと長い日数をかけて、歩いてみたいと思う。行先は北海道か、熊野古道か、お遍路か、はたまたジョン・ミューア・トレイルか、アパラチアか、デ・アラロアか、アラスカか、ラップランドか。世界には歩いたことのない道がいくらでもあるし、なんと日本の中ですら数えきれないほどのトレイルがあるのだ。そのそれぞれに歴史があり、人々の暮らしがある。そんなことを思うと、途方もない気持ちになったりする。

 

 

もうすぐ30歳になろうとしている。もう、手放しで若いと言える年齢じゃない。友達は次々と家庭を築いていって、きっとこの先、交友関係も変わっていくのだろう。人生、先は長い。この先何が起こるかわからないし、不安もあるけれど、でもきっと、ちょっと日常に疲れたら、山に向かえばいい。山は癒してくれない。汚いし、疲れる。でもそこに身を投げ出す自分の気持ちは、背負った荷物が重ければ重いほど、そして歩く距離が長ければ長いほど、不思議と軽くなっていくような気がするのだ。