gezellig

日記など。

good night

最近は忙しい日が続いていて、帰宅する頃には日付が変わってしまっているということも多くなっている。

 

日付が変わる瞬間はいつもどこかにドラマがあるような気がしてくる。23時50分のラーメン屋、目の前のやたらと味の濃い深夜にはそぐわない食べ物の入った丼を、なんとか10分以内に片付けようと意気込んだ。すでに多くの店が閉まり、静寂が訪れつつある商店街の道には、日を跨ぐ前に家に辿り着こうと、心なしか早足で家路を急ぐ人たちが、ぽつりぽつりと眼に入る。

 

家に帰ってからのこのくらいの時間は不思議な魔力があるような気がする。まだ起きていてもいいような気がするけれど、ぼんやりとしていたらいつのまにか睡眠時間が足りなくなる時間まで起きていてしまう。一日の疲れがそうさせるのか、ほんとうにゆったりと時間が流れることもあれば、神様がズルをして時計の針を一気に前に進めたんじゃないかって思うくらい、あっというまに時間が過ぎてしまうこともある。7、8時間もすれば、また自分はスーツをまとって出かけているんだと思うと、その7,8時間は果てしなく長い時間のようにも感じられることもあるし、逆に時間の流れの儚さを感じることもある。太古からの悠久の時の流れと、今自分が生きている小さな世界でせわしなく過ぎていく日々のコントラストを感じると、なんだかこんなことやってる場合じゃないなんていう気持ちになったりもするけれど、結局のところ人間の生なんてものはこのうえなくちっぽけなもので、僕が個体としていくら充実した人生を過ごそうが、あるいは乾燥した味気ない人生を過ごそうが、人類という種の保全という観点から見たら何の意味もないことなのだ、とニヒルな気持ちになることが多い。しかし僕はそんな客観性をもった事実を無条件に受け入れられるほど大人ではないので、変えようのない真実に必死で抵抗しようと、うんうんと思考を巡らせ、なんとか自分の生に意味があるかのように思い込もうとしている。

 

 

 

そんな夜を、最近はずっと過ごしているような気がする。そんなたいそうなことではないかもしれないけれど。

 

 

朝が来れば、また一日が始まる。大きなものから小さなものまで、誰かに対しても、自分に対しても、また嘘をたくさんつきながら、一日を終え、疲れた身体で家に帰ってきて、ああでもない、こうでもないと考えながら、いつのまにか瞼が重くなっていくのだろう。

 

 

「誰も近づくことのできないほど奥深い森の中で倒れる木は、音を立てるのだろうか」

 

不思議なことに、というのもはばかられるくらいよくある話だけれど、知らない人ばかりの都会で人の波に飲み込まれていると、人は孤独を感じるものだ。これだけの人々に囲まれながら暮らしていても、その中に自分のことを知っている人なんてほとんどいない。静寂の深淵の中で倒れようとする木が音を立てるかどうかはわからないけれど、もし、音を立てていたとしても、それにどれだけの意味があるだろうか。もし、僕が絶対的な孤独のなかで何かを感じ、考えたとしても、それに何か意味があるだろうか。

 

 

『荒野へ』で描かれたクリストファー・マッカンドレスは、アラスカの厳しい自然の中にたったひとりで身を置こうとした。人を寄せ付けない、奥深い森。ひとりの若者が対峙するにはあまりにも偉大な自然の驚異の中で、食べるものすら満足に得ることができず、天国へつながっているかのような透き通る青空の下で彼は静かに死んでいく。彼が死の淵で導き出した結論は、"Happiness only real when shared"というものだ。

 

 

分かち合うことができなければ、いかなる感情も真実とはなりえない。ならば、自分が日々の生活で感じる幸せや、苛立ちや、疲労感や孤独は、真実たりえないのだろうか。一人で家に帰り、夜遅くまで一人で考え事をしているとき、ふと、今自分が考えていることに何の意味があるのだろうと思う。何かを口に出し誰かと共有しなければ感情は本物とならないのだとしたら、日々、自分の中だけで、まるで奥深い森の中で倒れる木のように、死んでいく感情がどれだけあるだろうか。自分の考えていることや、感じた感情を、記録しなければと思う。しかし、それが他人向けになったところで、出てくるのは取り繕った偽物の言葉ばかりだ。本当の感情はどこにいってしまったのだろうか。本当の感情などというものはあるのだろうか。自分が今現実だと思っている物事は、実は誰かが見せている夢なのではないだろうか。すべてが無意味に思える瞬間は確かにあって、そうなってしまったときの建設的な解決策を僕はまだ知らない。時間が流れ、心が温かみをもってものごとを受け止めることができるようになるのを待つことしかできない。そのとき心の中には激しく揺れ動く思いがあるはずだが、たいていのことは忘れてしまう。忘却され、死んでいく感情たちにせめてもの居場所を与えてあげたいと思い、文章を書くけれど、書けば書くほど、自分が日々何を感じながら生きているのかわからなくなるし、表現したいものごとと、表現できる自分の力のギャップは年々大きくなっていく。

 

 

 

嘘をつくことになれてしまったね。なにかを隠すことになれてしまったね。そこには豊かで、穏やかな日々があるかもれないけれど、どこかに隠して忘れてしまった思いたちが、いつかその存在を証明し、居場所を求めるために暗い森の墓場から這い出して来るのではないだろうかと思うことがある。いつ、その瞬間がやってくるのかはわからないけれど、少なくとも今の生活をいつまでも続けることはできないだろうなと思う。そう考えたところで、今の自分には、今の生活を、ひとまず進めていくことしかできないということもわかってはいるけれど。

 

 

嫌な季節になった。梅雨の東京はどこまでも不快で、けれど人々は夏を待ち焦がれながら、なんともないような顔で毎日電車に乗っていて、それが余計に不快に感じられる。分厚い雨雲が静かに流れる空の下で、雨に濡れた道路は疲れた人々の姿を曖昧に映す。唯一、あじさいだけが灰色の世界に彩りを与えている。

 

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できれば、雨に濡れた姿を撮ってあげたかったな、と思う。つかの間の晴れ間に、その色が褪せてしまわないようにと願いがら、シャッターを切った。

 

 

北へ

春が去って梅雨に入る、このとてもとても短い初夏の夜に、肌を撫でた風はひんやりとして心地よく、あまりの心地よさに理由もなくふっと涙が出そうになった。地球は実はずっと回り続けていて、こうやってたえず風を運んでいるんだ。ビルだらけの東京ではそんなことをなかなか感じられないけど、雨が降ったり風が吹いたりすると、ときどきそんなことを思って途方もない気分になる。

 

 

また悪いことをしてしまった。燃えるゴミにプラスチックを混ぜてしまった。電気をつけたまま寝てしまった。仕事のミスをバレないように隠した。電車から出るときに人をわざと乱暴に押しのけた。

 

 

 

人はいつのまにやら心に淀みをためていくものらしい。ふとした瞬間に、自分がとても嫌な人間になっているのではないかと不安になることがある。そして、その不安は、たいていの場合現実だ。疲れていることを理由にして、あたりまえにすべきことをせずに日々を過ごしてしまう。仕事に打ち込んでいるとき、目標に向かって突っ走っているとき、それはそれで大切なことだけれど、それよりももっと大切で、忘れてはならないことを忘れてしまうことがある。そんなふうに、おそらく世の中の多くの人と同じように、なってしまう自分が悲しかったりする。自分は天才でもスーパーマンでもなければ善良な人格者でもない。自分は単なる凡人で、ずるくて、最悪だ。

 

 

そしてまた一日が始まり、今日も英子は都内某駅から、世界中の人が幸せになれるように願い、自分だけはみんなよりさらにちょっとだけ…幸せであるようにと願うのでした。

 

浅野いにお『超妄想A子の日常と憂鬱』

 

 

 

 

休み明けの怒涛の日々ですっかり忘れかけていたけれど、ゴールデンウィークは久しぶりに海外へ行った。遠い遠い北欧の国。昔、その国で暮らせたらなと思っていたことを思い出した。少し前、僕はその国から飛行機で2時間くらいのところに暮らしていた。行こうと思えば行けたけれど、なぜかそこは特別な場所のような気がして、どうしても飛行機のチケットを買うことができなかった。それから数年、思い立って成田発のチケットを買い、憧れの地に降り立った。少し天気が不安だったけど、1週間弱の滞在の間、晴れ間も見えた。日本は夏の始まりだったけれど、北欧は春の始まりだった。長い冬が終わり、短い春が来る。どういう気持ちで、彼らは冬を過ごすのだろうか。彼らにとって、春はどれほど特別なものなのだろう。彼ら、そして、太古の昔からこの地に生きてきた彼らの祖先たちは、何を思いこの凍える大地で暮らしてきたのだろう。

 

 

 

中世にタイムスリップしたような街並みは美しく、このまま、この幸せな旅がいつまでも続けばいいのにと思った。

 

 

 

 

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答えのない日々の中で、必死に答えを探している。そんなに簡単に見つかるものじゃないなんてことくらい、わかっているけれど。でも実は、それはそんなに難しいことではないなんてことくらい、わかっているけれど。

 

細胞が死ぬということ

 

 

何もない休日になると、日記を書きたくなることが多い。ひとりになれる時間はやはり必要で、ひとりになった僕が何をするかというと、頭のなかをぐるぐると渦巻くとりとめのない思いを言語化して、自分が今どこに立っているのかをちょっとでもはっきりさせることだ。最近は休日どこかに出かけてばかりで、先週まで3週間連続で新幹線に乗ったりしていたし、土曜の夜に家のベッドで眠ったのは久しぶりだ。基本的に社交性があるタイプの人間ではないし、友達と過ごすのは楽しいけれど、それでも定期的にひとりになる日がないと、心の中に淀みが生まれてしまう。そんな淀みの正体を明らかにし、自己満足に浸るために文章を書く。

 

 

ひとりで過ごす休日だけでなく、最近はどこかに行ったときに、その記憶をとどめておこうと日記を書くことも多くなった。旅行の記録は昔からしていたけれど、最近は外出するときも例えばカメラを持っていたり、「何かを探して出かけてしまっている」という気がして後ろめたい。世の中の感動というものは、本来的に、予測外のものであるべきだ。日々の生活をする中で、ときに美しい風景に出会い、忘れがたい体験をする。そういった瞬間を最近はスマホのカメラで気軽に撮れるようになり、それはそれで素敵だと思う。しかし、「フォトジェニック」な風景があることを期待しながら街を歩くのは、何か正しくないことをしているような、居心地の悪い思いをすることになったりする。世界のいろいろな街の路地裏は、迷い込んだ時にハッとその美しさや物語性に惹かれるのであって、路地裏を探しながら街を歩いてしまったら本末転倒だ。

 

 

モーターサイクル・ダイアリーズ」という映画を観た。若きエルネスト・ゲバラは友人と二人で南米大陸放浪の旅をする中で、ラテン・アメリカの厳しくも雄大な自然と対峙し、社会の周縁に追いやられた弱者と接する。この旅はゲバラの物の見方を大きく変え、数年後、彼はキューバでの革命を指導する革命家として世界にその名を知られることとなる。彼は旅の目的を尋ねられたとき、「旅をするための旅」と答える。実際、そうだったのだろう。映画の中での彼の姿はあくまで無目的だった。彼特有の強い意思が見え隠れする場面は描かれていたが、この青年が数年後にキューバでゲリラ戦を主導する姿は、想像しにくい。

 

 

経験から何を感じ取り、それをどう咀嚼し、その後の生き方に活かしていくかというのはほんとうに人ぞれぞれだ。ローマを訪れた人間がローマのことを「悠久の歴史の中で生きるマジカルな街」と感じるか、「過去の遺産で生きる腐った街」と感じるかはその人次第だ。

 

Some people feel the rain. Others just get wet. (Bob Marley)

 

 

ここまで書いて、平日になった。東京の上空には雨空が広がり、そう簡単に去りそうもない。雨雲の下で、せわしなく客先に向かいながら、記憶するということの意味を考えていた。東京のようにカラッと晴れた日が少ない土地で生まれ育ったから、雨というのは自分の子供のころの記憶と密接に結びついている。それでも、数日たって春らしい、あたたかな日差しが戻ってきたときに、あのとき降った雨の匂いを思い出そうとしても、なかなか思い出すことができない。ふとした瞬間に何かを思い出すということはあっても、なにかを思い出せなかったとき、思い出すのが適切と思えるときに、「思い出そうとする」という行為はなかなかに難しいものだと感じている。季節が巡り、都合の良いことばかり覚えていて、ほんとうは覚えておきたいディテールなんてちっとも思い出せない、なんてことが多くなってしまった気がする。あのとき打たれた雨はどんな温度だったっけ。スーツに身を纏って働き始めたとき、何を感じていたっけ。おいしい料理の記憶だったり、馬鹿馬鹿しい酒の席での記憶だったり、そんなことは覚えていても、そんなことを思い出したいんじゃないんだ。結局、思い出はきれいな形でこじんまりとまとめられてしまい、日々刻々と変化する日々を過ごしているように感じても、総じてみれば、何の変哲もない日々を過ごしているのかもしれないな、なんて思ったりしてしまう。本当はそこには数えきれないほどの感情が散在していて、出会いが、別れが、感動が、絶望が、そこかしこに無秩序に詰まっているはずなのに、振り返ってみて自分の生き方がそんなふうに小奇麗な物語に変えられてしまうのはなんだか悔しい。身体の奥底になにかそんな日々のカオスが刻まれていてほしいと思ってみても、細胞は7年ですべて入れ替わってしまうときた。この瞬間にも死んでいく細胞があるという事実には圧倒されてしまう。

 

 

例えば旅をすることで抱くようなプリミティブな感情を、心の中にしっかりと留めながら生きていくことはできるだろうか。塗り替えられていく記憶、入れ替わっていく体細胞のとめどない流れの中で、それでもなお残っている何かがあるのだとしたら、それはとても大切なことなのだと思う。

 

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枯れて、散った花がまた新たに芽吹く。

 

 

 

 

春と雨と

あたたかい雨が東京の街をしっとりと濡らし、満開に近づいた桜の花は淡いピンク色で街を彩っていた。分厚い雲に覆われた灰色の空には、儚い桃色は少し頼りなく感じられたけれど、春がやってきたのだということを強く感じた。

 

 

It's been a roller coaster ride.

 

 

そんな英語の表現がある。ローラーコースター・ライド。最近はまたしても目まぐるしく移り変わり続ける日々を過ごし、休む暇なんてないくらいだ。仕事が忙しいというだけではなく、休日も毎週どこかしらに出かけているので、ああこれが充実した日々というやつか、でもやっぱりちょっと疲れるな、どこかでちょっと休みたいな、なんて思ったりしている。

 

 

この週末は仙台に友達に会いに行ってきた。一日と半日だけの滞在だったけれど、おいしいものをおなか一杯に食べて、見たことのない風景をたくさん見た。週末に、ちょっとそこまでって感じで、仙台まで新幹線で出かけることができるって、なんだか自分がまた一段と大人になったような気持ちになった。

 

 

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今年はいろいろなところに行きたい。お金は少しかかるかもしれないけれど、でも大丈夫。ちょっとくらい貯金が減ったところで死にやしない。そんなことを考えながら、日々を過ごしている。でもやっぱりちょっと怖いから、コンビニじゃなくてなるべくスーパーに行くようにしてたり。あんまり意味ないんだけどね。昔っから、自炊するとたくさん食べてしまうし、ついついちょっと高い食材を使って手の込んだ料理をしてしまうし。

 

 

見たことのない世界を、仕事に本気で打ち込みながら、休日の時間をつかってどれだけ見ることができるか。それが今年のテーマになる気がしている。たぶん、ちょっとお金を使えばいろいろなところにいける。なんなら、週末に海外にだって行ける。ゴールデンウィークは久しぶりのヨーロッパだ。日本にも行ったことのないところがたくさんある。四国に行ってみようかな?北海道に、子供のときぶりに行ってみようかな?

 

 

そうやって、満足のいく一年が過ごせるだろうか。もし、満足できるのであれば、程度の差はあれ今年一年が今後の自分の生き方のモデルになるかもしれない。もし、それでも一年が終わって、本当に、もっともっと知らないところを自分の足で歩いてみたい、何も知らない環境の中で生きてみたいって思うのであれば、そのときはそのとき。次のプランを考えればいい。

 

 

 

「ちょっとでも見たいと思ったものは我慢せず見よう」

 

 

そう考えている僕は、仙台二日目の観光を昼過ぎで切り上げて、友人に別れを告げ、東京行きの新幹線に乗った。まだ間に合う、東京についても日が暮れる時間じゃない。桜を見よう。どうやら東京は雨が降っているみたいだけど。

 

 

 

「あいにくの雨」という言い回しがある。たしかに、雨は残念だ。きっと、青空が見えていたら、目黒川沿いの桜も、もっときれいに見えたのかもしれない。でも、そこには確かに春があった。季節が巡っていた。いつの間にか、どうしようもなく。

 

 

奇妙なことに、大学を卒業してから3年が経っていた。生まれ育った街を離れて東京で暮らし始めてから、7年が経っていた。7年前の今頃は、ほんとうに何もかもが新しくて、とても、とても、ワクワクしていたことを覚えている。暖かな東京の春の日差しを浴びて、慣れない家事をせっせとこなし、ちょっとずつ自分なりの暮らしを組み立てていった。「東京」なんて言葉を使うのが憚られるような片田舎だったし、レオパレスのアパートは周りにスーパーもコンビニもない不便な場所にあったし、線路沿いで電車が通るたびにガタガタ揺れたけれど、それでも僕はあの部屋が大好きだった。「戻れるものなら戻りたい」、とは思わない。でも、できるのであれば、あの頃の自分のところへ行って、そっと、「君はきっと、今、とても幸せな時間を過ごしているんだ」と囁いてみたい。それでいいんだよって。水をすぐに吸収する乾いたスポンジみたいに柔らかで、なにかを吸い取ってやろうという意思と、自分ならやれるはずという大胆不敵な自信に満ち溢れていたあの頃の自分。そんな感覚、なかなか掴めるものではないから。

 

 

 

それからの僕は、春の迎え方が下手だったな、と思う。何かに追われすぎていたり、春を待ちわびる人が疎ましく思えたり、日本にいなかったり。でも、今年は春が楽しい。それも、自分の成長ということなのかもしれないし、大人になったということなのかもしれないし。いろいろなことを嫌いなままでは、生きていくのが大変だしな、と思うようになったし。

 

 

楽しく生きよう、一瞬一瞬を大切に生きよう、と思った週末だった。

 

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曇り空と、桜と、やたらと高いホームから出発する電車。自分の暮らす街。愛おしい風景。多くの人が中目黒に桜を見に行くけれど、大崎から五反田にかけての目黒川に沿った道は、人も少なく平和で、なんだか少し胸がいっぱいになるほど美しかった。

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お酒が飲みたくなるのは無茶苦茶に飲んだ次の日だったりするし、旅に出たくなるのは旅から帰ってきたその日の夜だったりする。仕事が忙しいときにはいきなり新しい仕事のアイディアが浮かんでくるし、久しぶりにブログを書くともっと文章を書きたくなってしまう。いつまでたっても、何に関しても満たされることのない心と、これからいったいいつまで向き合い続けないといけないのだろうか。自分の中の何かが満たされたことなど、はたしてこれまで一度でもあっただろうか。

 

 

 

久しぶりに誰とも会わない休日を過ごした。9時過ぎに宅急便の配達人が鳴らす呼び鈴で目を覚まし、寝ぼけ眼で荷物を受け取る。もっと遅く来てくれよ、と思ったけれど、午前中に配達してくださいと配達人に伝えたのは自分だ。文句は言えない。せっかく、それなりにまっとうな時間に起きたので、洗濯をして掃除をする。スーパーに買い物に行って食材を買う。久しぶりに料理をする。おなかがいっぱいになったところで、ちょっとだけまた眠る。予約していた美容室に行って、散歩する。目黒の自然教育園に初めて行って、目黒から恵比寿までの道を歩く。恵比寿ガーデンプレイスの最上階に上って、現実ではないみたいな東京の街を眺める。昨日買った安物のスーツと革靴を受け取って、電車で最寄り駅まで戻る。外回りで擦り減ってしまったのでかかとを修理に出していた靴を受け取り、家に帰る。ちょっとだけ手の込んだ料理を作って、昼に買っておいたビールと一緒に食べる。いい気分になったので、行こうと思って行けていなかった近所の銭湯に行く。サウナと水風呂と寝風呂に繰り返し入っていると、少しだけ入っていたアルコールが身体から抜けていく感じがする。電車が行き交うのが見える狭い露天風呂で、夜風にあたりながら、たまに湯船につかる。身体は心地よい気怠さを抱え、自転車で風を切って家に戻る。ちょっとだけ水を飲んで布団の中に潜り込んだら最高の眠りを手に入れて、明日も最高の目覚めを手に入れることができそうだけれど、それができないのが今の自分だ。結局、こうやってパソコンに向かいながら無意味な文章を書き、観ているのか観ていないのかよくわからないサッカーの試合に、たまに目をやったりする。いつになったらまっとうな大人になれるのだろうか。夜は早く寝て、朝は早く起きて、毎日をいきいきと過ごす、大人のビジネスマンになれるのだろうか。あまりにも今の自分とそういったイメージはかけ離れすぎていて、もうどうだっていいやという気持ちになる。

 

 

 

昔は春が嫌いだったけれど、今は春も悪くないなと思い始めている。誰もが待ち望むものを、自分も同じように待ち望んでたまるものかと、今よりもさらにひねくれていた昔の自分は思っていた。でも今は、やっぱり少し丸くなってしまった。世の中の多くの人が良いと言うものは、やっぱりけっこう良いものなのだ。春だってそうだ。世界が少しずつ彩りを取り戻していく姿は、やはり美しい。もう少しで、本当に春になるという時期の東京は、なんだかそわそわしていて、でもやっぱり冷たい風が吹いていて、まるで木々が花の蕾を膨らませるように、人々の期待をじっくりと膨らませているようだった。

 

 

 

こういう日を、大切にしよう。冬を乗り越えて、春を待とう。それが生きていくということなのだから。

 

 

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東京にも、きれいな場所がたくさんある。

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実家の母親に連絡をとって、荷物を送るよう頼んだ。土曜の夜8時から9時の時間で送ったという短いメールが来た。

 

 

その時間、外で飲んでいることが多いとか、仮にそれが平日だとしたらまだ会社で働いていることが多いとか、そういう感覚を持ってもらうのは無理だろうなと思う。自分の生活に対する感覚は、両親が持つそれとは年々ずれていってしまい、このまま東京でひとりで暮らしているうちはその溝は深まる一方なのだろうと思う。

 

 

人間が無意識的に抱く感覚というのは、そう簡単に消えるものではない。最近、昔抱いていた感覚がふとした瞬間に蘇ることがあったりして、20数年続けてきた新陳代謝の中で古いものは忘れたり、消え去ったりするものだと思っていたけれど、意外とそうでもないんだということを考えたりした。染みついた過去は、それがよいものであれ、悪いものであれ、簡単に消えるものではない。

 

 

 

ブーツを履いて、ストックを握り、スキー板にブーツをはめる。懐かしい感覚。雪山を滑るのはほとんど10年ぶりだ。足に力を込めて進みだす。リフトに向かう。難なく乗れる。山頂についたら滑り出す。ややぎこちないのは、久しぶりすぎるせいか、レンタルで傷んだ板のせいか。それでも、少しだけ滑ったらすぐに思い出す。幼いころに身に着けた感覚というのはそう簡単に失われるものではない。風を切って、昔よりもさらに増えたボーダーの間をすり抜けながら、滑る。頬にまだ冬を感じさせる空気があたり、心地よい。

 

 

 

筋肉と骨の動きを伴う身体的感覚は、より曖昧な視覚や嗅覚といったものよりも、どうやら深く身体に刻み込まれるもののようだ。久しぶりに泳いでみたり、スキーをしてみたり、あるいは普段フットサルばかりしている中で、11人制のサッカーをしてみたりすると、そういったことがわかる。

 

 

長さや重さといった、単位で表現することの可能なものごとは、より人間の感覚を刺激しやすく、懐かしさや既視感を抱かせやすい。例えば恋人や昔の恋人と同じくらいの背格好の女の子と向き合ったりすると、ちょっとドキッとしたりする。センチメートルという単位で表される身長差という具体的な数値が呼び起こす感覚だ。これが、ただ恋人に似ているというだけでは、実はあまり心が動かなかったりするので不思議だ。

 

 

懐かしい景色を見ても懐かしいと感じるだけだけれど、懐かしいことをやってみるとただ懐かしいだけではなくて、蘇った感覚、思い出した動作ががすぐに自分自身のものとなる。しかし、懐かしいものを見ることも、懐かしいことをすることも、過去の経験を現在の自身の感覚から再生成しているにすぎない。同じ動作をしていたり、同じ風景を見ていたとしても、それを感じる自分は昔とは違う人間になっている。それがこの世界の物理法則の中で生きる、人間の宿命だ。すべてのものは、移ろい、変わっていく。

 

 

僕が母親の年齢になったら、夜の8時や9時は、あたりまえに家にいるものだと思うようになるのだろうか。これから家庭を築き、子供の世話をして、年老いていったら、若い頃のハードな毎日も、次第に忘れていくのだろうか。身体の衰えには抗えない。同じ経験を同じ感覚でできるのは、今しかない。今をどう生きるか。どう生きていくか。どう死んでいくか。

 

 

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久しぶりの雪景色。夜の中央線。近づく春。