gezellig

日記など。

if winter comes

季節は巡り驚くほど早く冬が来る。生温い空気がいつまで経っても過ぎ去らなかった秋が終わり、ようやく引き締まった緊張感のある空気が戻ってきた。こうしていつの間にか一年が終わるのだろう、そんなことを考えているうちに今年もあと3週間になった。

 

最近はバタバタしていて、ずっと何かを深く考えたりすることができていなかったなと思う。深夜、こうやってここ最近のできごとを振り返ってみると、自分がぜんぜん思考なんてしていませんでした、頭も心もからっぽのまま生きていましたと白状せざるをえないなということがわかってしまって、辛い。「日々弾力を失っていく心」という表現をどこかで聞いたことがある。当時はそんなふうになったら嫌だな、でもそれはそれでなんか都会っぽくていいのかもしれないな、かっこいい、なんてぼんやりと考えていたりしたけれど、ふと立ち止まってみると本当に、見事に、心が弾力を失っていってしまっているではないか。それは年をとるから当たり前だ、と言ってしまうこともできるかもしれない。思考力や感受性というのは脳細胞の動きがどれほど活発かという問題であり、ある時を境に人間の身体は成長を止め徐々に衰えていくということを考えると、何かを感じなくなってしまったり、何かを考えなくなってしまうことは、老いから来る当然の自然現象だと言うこともできるだろう。覚醒している間のぼんやりとした倦怠感に比例するように、夢の鮮明さが増していく。そこには喜怒哀楽がある。不完全な魂は真夜中、あてもなく意識の外側、あるいは奥深くをふらふらと放浪し、まるで自分がまっとうに生きているかのような感覚を味わうものの、けっきょくは捜し物を見つけることなく朝、現実に舞い戻る。

 

引っ越したことに伴って、色々なものを捨てて、本も最小限のものだけを残してあとは全部売るか捨てるかしてしまった。それは自分の中に蓄積していった知識だったり、物語だったり、経験だったりを、そこまで残しておく価値もないなと判断したということでもあり、いささか寂しい気持ちにもなる。人生は盛大な時間の浪費であり、これからも無駄なものを買い、無駄なものを知り、生きていくのだろうと思うと、うんざりを通り越してある種の諦めのような感情が生まれてくる。残しておくべきものはいったい何だろうか。本棚に残した本を眺めると、『イエイツ詩集』と『ムーミン谷の彗星』が並んでいて、ますます自分という存在がわからなくなる。これだけ長い間生きてきて、自分というものが何者なのかわからないというのも奇妙な話だ。ときどき、普通の人なら普通にできることが自分にはできないと感じることがあって、とても辛い。自分のことを説明するとか、普通に人と話すとか、別に何も気にせず生きるとか、そういうこと。それは自分を特別と思いたいがためのナルシシズムだろう、と言われればそれまでだけれど、息苦しさのような感覚というのは日々募っていく。

 

来年は変わるだろうか。年が明けたら、何かが変わるだろうか。住む場所を変えたところで、本質的に何かが変わるわけではないことはわかった。そんなことは、わかりきっていたはずだけれど。

 

世田谷区の話

ハロウィンの渋谷は馬鹿げた服装の若者で溢れかえっていて、山手線のホームではJRの職員が改札から出るまで10分かかることもあるといううんざりとした事実をうんざりとした顔で伝えている。僕は逆方向の電車に乗り込み、死んだ顔で先ほどの数時間の間で撮った物件の写真をぼんやりと眺めていた。

 

 

何かに向かって進んでいる感覚が欲しい。自分が何かを決めているという感覚。自分で何かを変えているという感覚。不意に、今の自分にはそんな感覚が欠けていると思うようになってしまった。部屋は古くそこまで広くもないけれど、友人や恋人にも恵まれ満ち足りた生活。万事快調とは言えないまでもそれなりに軌道に乗った仕事。レールに乗っていけば、普通に幸せで、それでいて刺激も感じられるような生活がこの先も待っているのだろうなとは思う。

 

 

週末ですべてを忘れて夜遅くまで起きて、少しだけ眠ってどんよりとした表情で会社に向かう月曜。スケジューラーを開いて今週の予定を確認し、「この日はなかなか帰れなそうだな」とか、「この日、この客先に向かう電車の中で寝れそうだな」とか、そんなくだらないことを考えている。毎日「普通」の時間に帰って「普通」の時間に寝ることができていれば、そんなこと考えなくたって、「普通」に仕事をして、「普通」に生活することができるはずだけど、そう簡単にはいかない。たまに帰り道に空を見上げる。たいてい星はきれいに見えなくて、星のないのっぺりとした空はまるで黒く塗られたコンクリートの壁を眺めているようだ。陽はまた昇る、と言うけれど、そうじゃない。陽はいつまでも昇ってほしくない。朝になってほしくない。そんなふうに思いながら日々を過ごしている。でもそんな生活が続いていくとそれすらもどこか心地よくなってしまって、そんなものを望んていたわけではないはずなのに、まるでそれを自分が心の底から望んでいたかのように思い込んでしまう。人は自分に都合のいい事実を、自分ででっち上げてしまう生き物で、僕もそんな人間の一個体に過ぎないのだから。

 

 

このままではいけない、と思って新しい部屋を探し始めた。どこに?そんなの考えている余裕はない。間違いのない場所。間違いのない間取り。間違いのない家賃。ユナイテッドアローズとかシップスとかアーバンリサーチとかで服買っておけばまぁそんなに外れることはないだろうとかそういうのと似ている。いいねその服どこで買ったの。別に普通にアローズだよ、2万円くらいだし。同じようなものをもっと安い値段で売る店なんていくらでもあるのに。「○○を着ていたら/聴いていたら/食べていたら/飲んでいたらおしゃれ」というような時代は過ぎ去ったようで過ぎ去っていない。すくなくとも、それをやっておけば無難というようなノームはそのときどきでやはり色濃く現れてくるものであり、そういうのに追従するのが一番体力を使わなくて済むのである。わかりやすく承認欲求を満たすためには実より名が重要であり、北千住に済むより恵比寿に住んだほうが良くて、駒場東大前に済むよりは中目黒に住んだほうが良くて、とか、そういうこと。どこ住んでるの。麻布十番。えーおしゃれ。ふざけんな。今例を上げたところに住もうとしているわけではないけれど。

 

 

ともかく衝動だろうがなんだろうが自分で何かを決めるという感覚が非常に重要であり、なぜならそれは自分がいっぱしの人間になったような気になれるから。忙しいふりをしていても実はサボりながら仕事をして、真面目に考えるべきことを後のばしにして、アルコールの助けがなければやっていけないような状態で、それだって嘘でアルコールの助けがなければやっていけないふりをしているだけで、別にパイント・オブ・ギネスじゃなくても小枝をサクサク口に運んだり家系ラーメンにニンニクを入れて啜るだけでも満足できるはずなのに、そんなことを考え始めると自分はまっとうに生きたいふりをして本当は死にたいんじゃないかとか、死にたいけどそれは死にたいふりをしているだけでそれはまっとうに生きたいという悲痛な心の叫びの裏返しなのではないかとか考え始めることになり、ああもうとめどなく考えは脳だけでなく心を侵食して、黒く蝕んでいくけれど、とりあえずニンニク入りの家系ラーメンを食べた後に小枝をつまみにして350ml・オブ・ギネスを飲む。やり直せるとしたらどこからやり直すだろうか。でもやり直すことなんてできないから、とりあえず前に進んでいるふりをして、前に進んでいる感覚を一番手っ取り早く掴むには転職するか結婚するか住む場所を変えるかしかないんだけど、前者2つはあまりにも体力がかかりすぎて無理なので住む場所を変えることにする。イージーな選択だ。でもお金がかかる?知ったことか。マイナスにならなきゃなんだっていい。なんならマイナスになって何が悪い。でもこれだって、衝動的に生きているふりがしたいだけなのでは?

 

 

自分が今一番やりたいことはなんだろうか。自分がやっていることはどれも、自分がやりたいことではないような気がしてくる。そんな違和感を抱えたまま、この先ずっと生きていくのだろうか。それが普通なのだろうか。普通というのはなんだろうか。新垣結衣より小松菜奈が好きだけど、小松菜奈を好きでいるというのは体力をつかうことだ。新垣結衣は知っているけれど小松菜奈は知らないという人はたくさんいるけれど、逆はいない。スタンダードではない。小松菜奈を好きというと「なるほどね」という反応が帰ってくるけれど新垣結衣を好きだといってそりゃそうだろ、男はみんな新垣結衣が好きだよ、無難なことばっか言ってんじゃねえよって会話が生まれることのほうが、実は何倍も人として建設的だ。

 

建設的でない生き方をするというのは、なんと疲れることなのだろう。普通でありたいという気持ちと、同時に普通であってたまるものかという気持ちが混在するのはどういうことなのだろう。今自分は普通なのだろうか。自分はどこへ向かっているのだろうか。

 

 

 

死ぬ季節

吸い込む夕暮れの空気は、少し小高い場所にいたからかもしれないけれど、ふわっと軽くて濃密な真夏の空気が消え去っていることに少し驚いた。まだ8月だ。しかし、8月の後半である。生まれ育った街では、盆を過ぎるとクラゲが出るからと海に入るのを止められたことを思い出した。本当に、気づかぬ間に季節というのは過ぎ去っていってしまうものだなと、性懲りもなく数カ月ぶりに感じてしまう。

 

 

そんなことを感じた、休みをとった水曜日から少し時間がたって、東京は雨が続いている。半袖だと夜には肌寒ささえ感じるような気候だ。夏はいつか死ぬ。「残暑」というのはあくまで「残暑」であって、それは夏本来の暑さではない。季節の移り変わりというのは、当然、グラデーションのように緩やかであるけれど、あるとき、決定的に、季節が変わってしまったと感じる瞬間が来る。

 

 

そうやって季節が過ぎていくことに、いつの間にか焦りを感じるようになっている。それは、過ぎ去っていくこの一瞬をなんとかして、丁寧に切り取り、記憶に留めておかなくては、というポジティブな焦りであることもあれば、一体全体俺はここで何をやっているんだろうという、じりじりと精神をむしばむ焦りであることもある。

 

 

食事や家事といった生活全般や、遊びや、友達や恋人とのコミュニケーションのとりかたや、仕事のやりかたや、そういったものが深く考えずとも落ち着いて心地よいようにできるようになってくると、ともすればそれらを「うまくこなす」ことができる状態に安堵しきってしまい、日々がマンネリ化し、いつのまにか彩りが失われてしまう。このまま生活を続けていれば、どうせそこそこに楽しく生きていける。このまま仕事を続けていれば、どうせもっといろいろできるようになって、給料も等級も上がっていく。1年後の自分がどうなってるかなんてわからないとは言えども、どうせ自分はうまくやれる。不安は大きいし、失敗はたくさんするかもしれないけれど、それも糧にしていくことができる。そんなふうな見え透いた未来を求めていんだっけ。あーやめたやめた、こんなことを考えるのは。そんなときはぼんやりと風呂につかるか何も考えずジムで汗を流すか死ぬほど凝った料理を始めるかどれかが正しいけれど銭湯には昨日行ったし夜は焼肉を食べに行く予定があるからジムに行こう。

 

ぐちゃぐちゃの感情は時として爆発しそうになるけれど、それなりにいい年齢の大人が感情を爆発させるのもみっともない。ちょっと前よりも破滅的な飲み会をする機会が減ったような気もする。秋になると感情が抑圧された状態が心地よくなってセンチメンタルな気分になりがちだけれど、いくら様々なことにひとりで思いを巡らせても、こういって文章にしてみても、解決策なんて何も生まれないということはわかりきっている。仕事で問題解決をして大きな成果を出すことはそれはそれで大切なことだけれど、仕事だけが人生ではなく、生き方全般を見直してみたときに自分は果たして問題解決をできているのだろうかと考えると自信がない。自分ほど仕事に打ち込まない友達の方が余裕があり、豊かな生活を送っているように見えることがある。それは隣の芝は青いとか、価値観の違いとかいう陳腐な言葉で片付けられることではなく、ハードな仕事に打ち込み成果を上げる自分に自己陶酔して、5日感情を失って働いた後に訪れる2日間の休息を適度に楽しく過ごすような今のぬるま湯に浸かったような生活を続けて幸せになれるわけがない。ぬるま湯と表現するにはあまりにも高温なお湯で、火傷して出ていってしまう人も多くいるような職場だけれど。そろそろ身の振りというか、今後のことを、考えていかないといけないなと思いつつ、こんなこと2年くらい前からずっと考えているような気がする。いつのまにかそうやってずるずると生活が続いていってしまうこと、100%の満足はないけれど70%くらい満足した状態で日常が続いていくこと、それこそが人生というものなのだと多くの人は言う。人生のことを考えるよりもまずは目の前の仕事のことを考えるべき、というくだらない、まっとうな、べき論に流されて今後も生きていくのだとしたら、それはそれでひとつの生のあり方だとは思う。

 

いつの間にかそうやって、3年以上が過ぎている。高校を卒業してから数えると7年だ。冗談かよ。いつもどこか霞んだ視界が当たり前になっていく。それは視力の衰えからのみ来るものでは決してない。

 

例によって答えは出ない。雨と風がひんやりと心地よい。人もまばらな公園は、しっとりと濡れて美しかった。

 

 

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この薄い紅の花をつけた木をサルスベリ、ということを初めて知った。サルスベリは8月に花をつけるらしい。ああ、この日、この瞬間に、この場所に来れてよかったと思った。

夢と夏

寝不足の日々がようやく終わり、六本木のカラオケで朝まで遊んでからタクシーで家に帰った。おなかが減っていたけどしっかりとしたご飯を食べる気力はなく、アイスを急いでかじってベッドに横になる。クーラーも付いている。何もかも忘れた深い眠りについて目覚めたのが17時。夏の一日が終わろうとしていた。ひとまずシャワーを浴びながら風呂掃除をして、洗濯機を回し、近所の商店街までクリーニングに出していたシャツを取りに行き、朝食みたいなご飯をコンビニで買って食べて、もう一度横になってダラダラと携帯の画面を眺める。ネットで夏の夕暮れの画像を見かけたら、実際にそこにいるわけでもないのに、なんだか切ない気持ちになって、福山雅治の「ひまわり」をかけた。懐かしい音。窓を開けたらじとっと肌にまとわりつく、むせかえるように濃密な東京の夏の空気が漂っていた。

 

 

寝不足の原因は先週末のフジロックだ。月曜の朝からどうしても外せない会議があったため、金曜日の夜に近くまで移動し日曜の夕方まで楽しんだ。新幹線に乗るためにRIDEとノエル・ギャラガーを諦めないといけなかったのは本当に残念だったけれど、夢の中にいるような二日間だった。雨も降らず、日差しは強く肌をジリジリと焼いていったけれど、何杯もビールを飲み僕らは音楽に身体を揺らした。4時間しか眠らずに二日目に向かってまた朝から楽しんだ。こんな楽しみ方は若くないとできないな、と思いながら会場を歩き回った。

 

 

夢はいつか終わり、現実が目の前に現れる。東京駅で脱ぎ捨てたスーツをピックアップして家に向かい、興奮冷めやらぬまま眠ったら次の一週間が始まる。この一週間はとにかく大変なことが多くて、僕にしては珍しくイライラすることも多かった。睡眠時間も削られ、毎日ふらふらになりながらもどこかハイテンションなまま乗り切った一週間だった。外国人から見ると日本人はアル中に見えるとよく言うけどどうだろう。海外にも酔っ払って騒ぎを起こすクソ野郎はたくさんいたような気がするけれど、確かに日本の居酒屋のように際限なく酒が提供され続けるような場はあまりないのかもしれない。

 

 

カラオケで、一人ひとりがテーマを出してそれに沿った歌を選んで歌うというのをやった。「朝、会社に行きたくないときの歌」というテーマで、みんながテンションが上がるような曲を歌う中で、僕は斉藤和義の「歩いて帰ろう」を選び、「嘘でごまかして すごしてしまえば 頼みもしないのに 同じような朝が来る」と歌っていた。あれ、そういうことじゃない?こういう気持ちって誰もが持っているような気がしていたけれど、意外と少数派なのか?とか思ったりしたけれどまぁそれでもいいや。

 

 

夏というのはなんと厄介な季節なのだろう。こんなにも暑く、冷房の効いた室内から外に出るのなんてほんとうは億劫に感じるはずなのに、人はみな、なぜか太陽の光が降り注ぐ空間に向かう。風景は四季折々、趣があるはずなのに、なぜか夏の風景は郷愁の念と結びつく。思い出という言葉ともっとも相性が良いのは夏だ。日本の夏は、長いようで短い。その間に人々は踊り、騒ぎ、戻ることのできない瞬間を心に刻んでいく。8月という特別な月に、単純で愚かな人間であることに、喜びを覚えようと思った。

 

 

街に夏を探しに行った。東京の夏はどこにある。今自分が見ているものは夏の風景だろうか。うだるような暑さの見知らぬ街の商店街は人の姿もまばらだ。汗が灰色のTシャツを濡らして黒い染みを作った。いつか真夏の東京を必死に駆けまわった記憶が思い出になる日が来るのだろうか。それとも結局は海だったり花火だったり、冷房の効いていない夏休みの教室だったり、遮るものの何もない日差しを受けてカラカラに乾いたグラウンドだったり、そういったものがいつまでも、亡霊のように、薄まることなく夏の記憶として自分の中に居座り続けるのだろうか。ただただ気温と湿度だけが高い街の姿をこれが東京の夏ですと見せられたところでその風景にリアリティはなく、僕の夏はここにはないと思うけれど、だからといって今すぐに海に向かって海岸線から花火を眺めたとしたってそれはきっと取り繕われた大人の夏の休日にしかならないんだろうなと、少し悲しい気持ちになる。

 

 

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思い出には残らないかもしれないから、写真には残しておいた。それでも少しでも、記憶に残るように、自分の住む街が夜の淵に沈んでいこうとする姿をただただ眺めていた。その色を覚えておこうと。

知らない場所

何も考えないこと、というのはとても難しいことだ。しかし、なにかを忘れてしまうことも多くなってしまった。夜寝る瞬間と朝起きた瞬間は、とりわけ、いろいろなことを考えてしまう。夜はベッドの上でねむいなーと思いながらも一日のことを思い出し、あいかわらず、そんなにいい一日とは言えないなあなんて思ったり、やり残した仕事を思い出してしまったり、とりあえず少しでもいい気持ちで眠ろうと、まったく別のことを考えようともがいてみたりする。朝起きると、昨晩なにを考えていたのか忘れてしまっていることが多くて、昨日の夜自分はなにをしていたんだろうと考えるところから始まる。徐々に現実に引き戻され、今日やらないといけないことを考え始める。

 

 

思えば、最近、やりたいこと、ではなくて、やらないといけないこと、ばかりを考えているような気がする。休日にだって現実がついて回る。掃除をしないと。洗濯をしないと。クリーニング屋にいかないと。運動しないと。あれを買わないと、これを買わないと。

 

 

そんなことばかり考えるのにいささか疲れ、連休の中日、予定がないことに気づき、今日はいちにちやりたいことをやろうと思った。やりたいことってなんだ。何もやらないことだ。知らない場所へ行って、なにも考えずに、ぼーっとすることだ。

 

 

 

電車を乗り継いで、房総半島の端まで行った。水田と渓谷と森の中をゆれながら走るローカル線に乗って、ときどきウトウトしながら、東京方面を目指した。遠くまで行って、違う道から戻ってくるだけの旅。なんのため?と聞かれても、答えることができない。ただ電車に乗っているだけの旅。

 

 

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時間はゆったりと流れていた。夏の日差しがジリジリと照り付けていたけれど、風がそよぐ景色は涼やかで、冷房の効いた電車の車内は涼しい。人が詰め込まれている東京の地下鉄の不快感もなく。ここには何もない。考えるべきこともなにもないし、何かを探してせわしなく歩き回る必要もない。ただ、電車に揺られていた。そんな時間、いつぶりだろう。気怠く、ぼんやりとした空気。繰り返し現れる、川と水田と森。空の青と、地上の緑のコントラストを眺めていると、なぜか懐かしさがあふれ出て、子供のころにタイムスリップしたような気分になった。人間の記憶なんて勝手なもので、自分はそれなりに都会と言えるところで育ったにも関わらず、こういう風景を見せられてしまうとすぐに日本の原風景だとかなんだとか言い出す。それがちょっと悔しいけれど、でも、その風景は掛け値なしに素晴らしいものだった。

 

 

ふたつのローカル線を乗り継いでJRの駅に近づくにつれて、だんだん、首都圏の街並みが戻ってくる。夕暮れに沈む、グロテスクな大都市を眺めながら、家に戻る帰りの電車は、少しくたびれた人が多かったように思う。僕と同じように、ちょっと郊外まで出かけた人が多かったのだろうか。そうだよね、やっぱり、みんなちょっとずつ、疲れているよね。電車に乗るのも疲れたなあと感じたくらいのタイミングで、最寄り駅まで近づいてくる。とても久しぶりに、駅前の商店街を歩いたような気がした。なんだか、何日もかかる旅に出ていたみたいだ。気分がよくなって近所の居酒屋に入ってみる。おいしい料理を食べて、家に帰って眠る。今日は、何も考えずに、眠りにつくことができた。明日もまた休み。だからといって平日のせわしなさが少しだって変わるわけでもないし、また平日が来たら、ぼーっとする時間なんてなくて常に頭を働かせないといけないんだろうけれど、少なくとも今日一日、いい一日を過ごすことができたなと思った。そんなことは、久しぶりだと思った。

 

 

日記20150707

月曜から火曜にかけての寝起きが一番すっきりしている気がする。たいていの場合、日曜の夜は明日会社行きたくない明日会社行きたくない明日会社行きたくないと唱えながら夜更かししていることが多いし、月曜は朝早くから社内で会議が入っていることが多くて睡眠時間が著しく削られてしまうからだ。月曜の夜は疲れるので早く眠る。結果として、火曜の朝はよく眠れたなと感じることが多くなる。8時すぎくらいに目覚めて、なんだかんだで30分くらいはベッドの上でグダグダとよく寝たなーでも今日も働きたくねえなーと思いながら過ごす。シャワーを浴びてスーツを着てコンビニで売ってるマウントレーニア?の安っぽくて甘ったるい「エスプレッソ」(当然それはエスプレッソなどと呼べる代物ではない)を飲みながら家を出る。電車を乗り継いで客先へ向かい、10時前に商談に同行する他部署の人と合流し、客先へ入る。この人と一緒に客先へ行くのは初めてだ。自分一人で説明できないところのサポートを頼んだつもりだったけれど、その人のパフォーマンスが低すぎて驚愕した、というか終始イライラしながら訪問を終えた。一人で行ったほうがよかったかなとか思いながら、せめてもの仕事はしてほしいので諸々の確認事項の確認をお願いして、次の訪問先の近くまで向かう。社歴で言うと僕のほうがかなり下なんだけど、すんません。昼前だけど次の訪問の前までにメールを返したり、話さないといけない内容を頭に詰めたりする作業が残っていたので、豚骨ラーメンってあんま好きじゃないんだよなと思いつつも、もうすぐ12時だったので12時になると昼休みの人々が押し寄せるだろうなと思い、目に入ったラーメン屋に入り、ソッコーでまずいラーメンを掻き込む。まずい。特に麺が。うまい麺って言われてもよくわからないけど、まずい麺はすぐにわかるから不思議だ。終わったら客先のビルの1階にあるカフェでアイスコーヒーを頼んで、メールチェックしてから集中して資料を読み込む。Windows RTというクソOSを積んだSurface 2を仕事で使っているんだけど、まぁメールチェックくらいならとても快適。思い会社PCを持ち運ぶくらいならこれの方が何倍もいいや。そういえばアイスコーヒーってめちゃくちゃ嫌いなんだけど夏は暑いので飲まざるをえないのが不快だ。朝からここまで、嫌なものしか口にしていない。待ち合わせ時間直前、強烈な尿意。ダッシュでトイレを探して、待ち合わせ時間に焼く45秒ほど遅れて到着。今回の訪問は自分の担当企業ではないものの、一個上の女の先輩から僕の得意分野について話してほしいと頼まれたので来た。まぁいっか、そこそこ好みの外見の人だし、上司も来るし、と思って引き受けた仕事だ。訪問は大成功。久しぶりに、俺よくやったなーと感じた。3人で歩いて駅に向かい、僕は会社へ。電車の中で上司と話す。こういうときの雑談は思いもよらぬお得情報があるから貴重だ。会社の最寄り駅まで来たんだけど、ギブ。めっちゃ疲れたのでカフェで休憩する。よくわかんないタピオカが入ったドリンクを注文した。仕事しようかと思ったけど、逆に短時間で集中して休もうと思い、Youtubeで動画を見ることにした。2006年W杯のジダンの活躍に思いを馳せる。思うに、あれだけ傑出した個人のパフォーマンスが発揮されたのは、コレクティブな戦いを志向するチームが勝ち上がった2010年、2014年では当然なかったし、それより前だとマラドーナの時代に遡らないといけないのではないか。当時、リアルタイムで見ていて、本当にフットボールに魔法をかけたようなジダンのプレーに、本当に興奮したのを覚えている。のろのろと歩いて会社に戻り、電話だったりメールだったりであっという間に時間が過ぎていく。後輩と打ち合わせをする。そういえば自分の中で後輩に何かを教えるということに時間を使うことが増えてきて、そういえば会社入ってから数年経つもんなーと思った。色々やってたら20時。同じチームの、入社10年にもなる先輩が、別のオフィスでの打ち合わせから戻ってくる。この人、ほんと働き過ぎだし、ふつーにこういう時間にオフィスに戻ってくるのって後輩に悪影響だと思うんだよな。PC持ち運んでるし、外でやればいいのにと思いつつ、まぁでも尊敬は尊敬だ。そういう働き方もある。諸々の仕事を片付け、そしてその他大量の仕事を放置し、疲れたので会社を出る。そろそろ、次にどういうものを目指していくのかを考えないとなーとぼんやりと考えつつ、電車に乗る。途中、大好きなうどん屋でいつものちくわと鶏天がついたぶっかけうどんを食べる。うまいけど、別に食べたい気分じゃなかったなと思って後悔する。今日は食事のチョイスがよくなかった。豊かな生活の根本は良い食事だ。反省。バスに乗って家に帰る。疲れたなと思ったのでコンビニでビールを買う。七夕だけど星なんてぜんぜん見えないなと思う。帰ったらとりあえずスーツを脱いでハンガーにかけ、シャワーを浴びる。何しようか迷った末に、日記を書くことにする。せっかくシャワーを浴びたのに汗がとまらない。まぁいっか、明日の朝もまたシャワー浴びるし。たばこが吸いたいと思うけどそもそもたばこは吸わない主義なので吸わない。水タバコとかほしいなーと思う。買ったら数回で飽きそうだけど。普通の一日だった。明日は朝が早い。また今日も、明日の朝も、仕事したくねえなーと思う。でも、客観的に見ればけっこうバリバリに難易度高い仕事やってるし、なんか自分が何したいのかよくわからん。きっとこんな感じが一生続いていくんだろうな。そのくらいがちょうどいいんだろうな。

日記20150704

今日は休日だけど会社に行って少しだけ仕事をした。昨日は夕方から全社でのイベントがあって早めに仕事を切り上げた人が多かったので今日はその分会社まで来てる人が多いかなと思っていたけど全然そんなことなくて僕ともう一人くらいしかいなかった。特段仲が良い人でもなかったので部屋に入ったときと帰るときに「お疲れ様です」と言っただけだ。今日はこれと、玄関までやってきたモルモン教徒の誠実そうな男の人に対してすこし申し訳ないなと思いつつも「今少し忙しいので」と言ったのと、クロネコヤマトの人に対して「はい」と言ったのと、日高屋でダブル餃子定食を注文するとき以外には、言葉を発していない気がする。今日はいつもよりいろいろなことを考えたなと思う日ほど実際に声に出している言葉の数は少なかったりするので、たぶん僕がひとりで考えることなんてこれっぽっちも社会的意味を持たないものなのだろうなということを強く感じる。でもそういう日ほど、こうやってキーボードをたたいてネット上に文字を打ち込む時間は増えていたりして、健全な人なら不健全と表現するのだろうなというような一日を過ごしていたりする。僕はどちらかというと比較的小さな頃からこうやってアルファベットや数字やよくわからない記号が印字されたボタンをひたすらに押し続けてきた人間で、古き良きインターネットの黎明期の最後のひとときを、かろうじて見てきた人間だ。2ちゃんねるはもっとずっと殺伐としていたしまとめサイトなんてものはなかった。誰に向けるでもないエモーショナルな文章がネット上にあふれていた時代だった。携帯電話は持っていなかったしスカイプなんていう便利なものもなかった(あるにはあったがそんなに普及していなかった)ので親のPCでメールアカウントを作ってもらってそれで友達とメールした。今思うと頭がおかしいけれど親のPCで必死に文面を考えてそれをキーボードに打ち込んで女の子に告白したことだってあった。あの頃はブラクラなんてものがあって一度うっかりクリックしてしまって焦ったものだ。兄はインストールしたフリーのゲームからPCをウイルス感染させて怒られていた。そのときから使っていたso-netのメールアドレスは大学時代まで使い続けたけれど、何かの拍子にログインできなくなってしまって、それ以降はGmailを使っている。いつか、どこかで、ふいにログインできたらきっと1ヶ月くらいかけても読みきれないくらいの大量のメールが届いていて、その大半は無価値なメルマガだったり今この瞬間の僕にはなんの意味も持たない大学やサークルに関わるメールだったりするんだろうなと思うけれど、もしかしたらだれか大切な人からの知らせが届いていたりするのかもしれないなと思うと、ちょっとごめんって思う。いつのまにか何もかもがそれとは気づかないうちに変わっていってしまうなと思う。数カ月ぶりに郵便受けを開けて中を見たら自分に有益な情報なんてひとつもなかった。昔は郵便受けは3日に一回くらいは、その頻度で律儀と言えるのかどうかはよくわからないけれどそれでも僕なりに律儀にどんな手紙やチラシが来ているのか確認をしていたけれど、最近はそういうことをぜんぜんしなくなった。当時から、家に帰ってくるたびに毎回郵便受けを確認する彼女のことをなんでそんなきっちりできるんだろうと不思議に思っていたけれど、年をとるにつれて自分がだんだん適当な人間になっていっているような気がしてくる。人間、そう簡単には変わらないというけれどそれはみんな人間がそう簡単に変わらない姿を見たいと思っているからであって、実際はけっこうな部分が変わっていっているのだろうなと思う。あ、でもこの文章を書きながら唐辛子をかじったらめちゃくちゃ辛くて悶絶しているんだけど、小学校のころ母親と一緒に行った近所のいい感じのイタリア料理屋でパスタについてた唐辛子をかじってその後数時間ダウンしていたのを思い出した。なんだ、あんまり変わってないじゃん、俺。そのほかに今日書き留めておくべきことといえば、朝食がコーヒーとヨーグルトだったこと、油断していたらゴミ回収車が来てしまってゴミを出せなかったこと、ゲームをしたこと、昼ごはんにとても久しぶりにカップ焼きそばを食べたこと、シャワーを浴びながら歌を歌ったこと、HEROの初期の再放送を見たこと、会社に行くとちゅうに知り合いに偶然あったこと、新橋に行くかどうか迷ってけっきょく行かないで家に帰ったこと、コンビニで飲み物を選んでいる途中に考えごとをしてしまってその場にたぶん3分くらい立ちすくんでしまったこと、キャベツをいろいろなものに着けたつまみを作ったこと、キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャンを観たこと、応援しているサッカーチームの試合を見ていること。いつかもっとちゃんとした大人になりたいと思っていること。そういうことを考えて胸がいっぱいになっているということ。