gezellig

日記など。

sunday

お酒が飲みたくなるのは無茶苦茶に飲んだ次の日だったりするし、旅に出たくなるのは旅から帰ってきたその日の夜だったりする。仕事が忙しいときにはいきなり新しい仕事のアイディアが浮かんでくるし、久しぶりにブログを書くともっと文章を書きたくなってしまう。いつまでたっても、何に関しても満たされることのない心と、これからいったいいつまで向き合い続けないといけないのだろうか。自分の中の何かが満たされたことなど、はたしてこれまで一度でもあっただろうか。

 

 

 

久しぶりに誰とも会わない休日を過ごした。9時過ぎに宅急便の配達人が鳴らす呼び鈴で目を覚まし、寝ぼけ眼で荷物を受け取る。もっと遅く来てくれよ、と思ったけれど、午前中に配達してくださいと配達人に伝えたのは自分だ。文句は言えない。せっかく、それなりにまっとうな時間に起きたので、洗濯をして掃除をする。スーパーに買い物に行って食材を買う。久しぶりに料理をする。おなかがいっぱいになったところで、ちょっとだけまた眠る。予約していた美容室に行って、散歩する。目黒の自然教育園に初めて行って、目黒から恵比寿までの道を歩く。恵比寿ガーデンプレイスの最上階に上って、現実ではないみたいな東京の街を眺める。昨日買った安物のスーツと革靴を受け取って、電車で最寄り駅まで戻る。外回りで擦り減ってしまったのでかかとを修理に出していた靴を受け取り、家に帰る。ちょっとだけ手の込んだ料理を作って、昼に買っておいたビールと一緒に食べる。いい気分になったので、行こうと思って行けていなかった近所の銭湯に行く。サウナと水風呂と寝風呂に繰り返し入っていると、少しだけ入っていたアルコールが身体から抜けていく感じがする。電車が行き交うのが見える狭い露天風呂で、夜風にあたりながら、たまに湯船につかる。身体は心地よい気怠さを抱え、自転車で風を切って家に戻る。ちょっとだけ水を飲んで布団の中に潜り込んだら最高の眠りを手に入れて、明日も最高の目覚めを手に入れることができそうだけれど、それができないのが今の自分だ。結局、こうやってパソコンに向かいながら無意味な文章を書き、観ているのか観ていないのかよくわからないサッカーの試合に、たまに目をやったりする。いつになったらまっとうな大人になれるのだろうか。夜は早く寝て、朝は早く起きて、毎日をいきいきと過ごす、大人のビジネスマンになれるのだろうか。あまりにも今の自分とそういったイメージはかけ離れすぎていて、もうどうだっていいやという気持ちになる。

 

 

 

昔は春が嫌いだったけれど、今は春も悪くないなと思い始めている。誰もが待ち望むものを、自分も同じように待ち望んでたまるものかと、今よりもさらにひねくれていた昔の自分は思っていた。でも今は、やっぱり少し丸くなってしまった。世の中の多くの人が良いと言うものは、やっぱりけっこう良いものなのだ。春だってそうだ。世界が少しずつ彩りを取り戻していく姿は、やはり美しい。もう少しで、本当に春になるという時期の東京は、なんだかそわそわしていて、でもやっぱり冷たい風が吹いていて、まるで木々が花の蕾を膨らませるように、人々の期待をじっくりと膨らませているようだった。

 

 

 

こういう日を、大切にしよう。冬を乗り越えて、春を待とう。それが生きていくということなのだから。

 

 

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東京にも、きれいな場所がたくさんある。

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実家の母親に連絡をとって、荷物を送るよう頼んだ。土曜の夜8時から9時の時間で送ったという短いメールが来た。

 

 

その時間、外で飲んでいることが多いとか、仮にそれが平日だとしたらまだ会社で働いていることが多いとか、そういう感覚を持ってもらうのは無理だろうなと思う。自分の生活に対する感覚は、両親が持つそれとは年々ずれていってしまい、このまま東京でひとりで暮らしているうちはその溝は深まる一方なのだろうと思う。

 

 

人間が無意識的に抱く感覚というのは、そう簡単に消えるものではない。最近、昔抱いていた感覚がふとした瞬間に蘇ることがあったりして、20数年続けてきた新陳代謝の中で古いものは忘れたり、消え去ったりするものだと思っていたけれど、意外とそうでもないんだということを考えたりした。染みついた過去は、それがよいものであれ、悪いものであれ、簡単に消えるものではない。

 

 

 

ブーツを履いて、ストックを握り、スキー板にブーツをはめる。懐かしい感覚。雪山を滑るのはほとんど10年ぶりだ。足に力を込めて進みだす。リフトに向かう。難なく乗れる。山頂についたら滑り出す。ややぎこちないのは、久しぶりすぎるせいか、レンタルで傷んだ板のせいか。それでも、少しだけ滑ったらすぐに思い出す。幼いころに身に着けた感覚というのはそう簡単に失われるものではない。風を切って、昔よりもさらに増えたボーダーの間をすり抜けながら、滑る。頬にまだ冬を感じさせる空気があたり、心地よい。

 

 

 

筋肉と骨の動きを伴う身体的感覚は、より曖昧な視覚や嗅覚といったものよりも、どうやら深く身体に刻み込まれるもののようだ。久しぶりに泳いでみたり、スキーをしてみたり、あるいは普段フットサルばかりしている中で、11人制のサッカーをしてみたりすると、そういったことがわかる。

 

 

長さや重さといった、単位で表現することの可能なものごとは、より人間の感覚を刺激しやすく、懐かしさや既視感を抱かせやすい。例えば恋人や昔の恋人と同じくらいの背格好の女の子と向き合ったりすると、ちょっとドキッとしたりする。センチメートルという単位で表される身長差という具体的な数値が呼び起こす感覚だ。これが、ただ恋人に似ているというだけでは、実はあまり心が動かなかったりするので不思議だ。

 

 

懐かしい景色を見ても懐かしいと感じるだけだけれど、懐かしいことをやってみるとただ懐かしいだけではなくて、蘇った感覚、思い出した動作ががすぐに自分自身のものとなる。しかし、懐かしいものを見ることも、懐かしいことをすることも、過去の経験を現在の自身の感覚から再生成しているにすぎない。同じ動作をしていたり、同じ風景を見ていたとしても、それを感じる自分は昔とは違う人間になっている。それがこの世界の物理法則の中で生きる、人間の宿命だ。すべてのものは、移ろい、変わっていく。

 

 

僕が母親の年齢になったら、夜の8時や9時は、あたりまえに家にいるものだと思うようになるのだろうか。これから家庭を築き、子供の世話をして、年老いていったら、若い頃のハードな毎日も、次第に忘れていくのだろうか。身体の衰えには抗えない。同じ経験を同じ感覚でできるのは、今しかない。今をどう生きるか。どう生きていくか。どう死んでいくか。

 

 

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久しぶりの雪景色。夜の中央線。近づく春。

Winter in Tokyo

東京の冬みたいじゃない冬の昼間が好きだ。カラッと穏やかに晴れていて、温かい服を着て、街を歩き回る。ちょっと前に友達に会いに行った、都心から少し離れた神奈川の街は平和で、ほんとうは富士山も見えたりしてきれいだったんだけど、富士山が写った写真はなんだか急に嘘くさくて大げさな感じがしてしまう。味気ない街や、特段面白味もないビルの屋上の姿のほうがいいなと思ったりした。

 

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二日続けて朝まで飲んでしまった。久しぶりに始発に乗って帰るということをした。最近は深夜にタクシーで帰ってしまっていたもんな。夜明け前はやっぱり寒い。冬の夜明け前はなかなか明るくならなくてちょっと残念だ。ちょっとずつ光が差し込んでくる感じが好きなんだけどな。その時間を待ってもよかったかもしれないけれど、眠気には勝てない。家に着いたらシャワーも浴びず、真っ暗な中で部屋で冷たい布団にくるまって、起きたらまたいい一日が待っていますようにと祈りながら、少しだけ眠った。

 

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昔撮った大好きな写真。懐かしい公園。冬の朝。

how to be dead

Memories are complicated things. They rarely come to our mind in their pure forms. All too often, they are biased. We re-create them from a certain point of view. They are what we want to see as our past. We tend to exegerate the feelings we had in our memories. Bad memories become more bitter, and ordinary things that we didn't think as anything special become "good memories" as time goes by. People always want to justify their past. They want to think what they have done is right and what has tormented them as beyond their control.

 

That's us. That is human beings.

 

Memories, in many cases, are connected to other subsidiary, often trivial and minor things. Music, smell, warmth or coldness, colors, state of our body, height of the sun, things like that. When I remember something, I often remember the songs I used to listen to when I was in it. When I was in somewhere in Europe as an exchange student, I was crazy about Snow Patrol's "How To Be Dead". Its simple and calm melody suited that year's cold winter in Europe. I played it on my iPod Touch I bought there, put my headphone that I also bought there, and walked around the town endlesslly when I had time. Snow was falling and I felt I was alone, at least in that moment, far away from my home country and had nothing to turn to. As my days there were approaching the end, I made friends with many people, and I didn't feel loneliness as often as before. I started to listen to more up-tempo songs. "How To Be Dead" still remains my all-time favorite, but it has lost its special meaning for me. It was special in that moment. In that cold winter. In that beautiful, silent town covered with snow. In that strange feeling of being in between a traveler and a resident. 

 

Those days are gone and lately I tend to listen to peaceful songs in these busy days. Jack Johnson and Jason Mraz are my favorites. I often listen to playlists on 8tracks with tags like "chill", "sunday morning" and "indie". I don't usually listen to Snow Patrol nowadays. Sometimes I badly want to listen to them, but everytime I listen to them, the songs sound different from before. 

 

Different life. But your life right now is the result of what you have lived. That wind, that snow, that coldness, and that sound... they are all etched in my body and have become part of it.

 

Sorry if I have made mistakes in English. I'm not using it daily and I'm a bit too sleepy to read this over again.

 

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insomniac

学生のころは眠れない夜というのが好きだった。うんうんと布団の中でなんとか眠ろうともがいた後は、潔くあきらめて布団を抜け出し外に出る。そこにはいつもは感じることのない空気があり、嗅ぐことのない匂い、耳にすることのない音があった。その頃のアパートは駅から遠くどこへ行くにも自転車が必要な、ひどく不便なところにあった。腹が減っていたら深夜の吉野家に行って牛丼を食べた。マクドナルドのコーヒーで気が済むまで粘ることもあった。そういうときは大抵、分厚い学術書だったり、小難しい小説だったりを読んでいて、当時はまるでそんなこと考えもしなかったんだけれど、こんなことできるのは今だけだって、心のどっかで、わかっていたみたいだった。よし朝まで起きていてやろうなんて思っても、結局夜が深まってもうちょっとで太陽が昇る時間になれば、眠くなって家に帰る。朝方の冷えた部屋で、ほんの少し差し込む陽の光を感じながら、満足感とほんの少しの罪悪感が織り交ざった、しあわせな気持ちで布団にくるまって、すっと眠りに落ちる。そうやって何度、一限の授業をすっぽかしたっけな。

 

数年たった今、眠れない夜には常に現実がついてまわる。早く寝ないと明日の仕事に支障が出てしまうな、とか、今から吉野家に行ったら太ってしまうな、とか。今週もよく働いたな、今日はとびっきり早く寝てやろうと意気込んで布団をかぶった金曜の夜、眠気はさっぱり訪れず、けだるい身体と覚醒した頭のコントラストがちぐはぐで、身体に正直に生きるってことを最近ちょっとずつ忘れっちまってるな、なんてことを思ったりする。頭の中をいろいろな考えが次から次へとめぐっては消えていく。さっき考えてたことは、なにかとても切実で大切なことのはずだったのに、次の瞬間にはもう思い出せなくなっていて、悲しいような虚しいような気持ちになる。身体はだんだん火照ってきて、あの頃と同じように、あきらめて布団から出る。違うのは、起きだしてしまったからってマクドナルドに行ったりしないってことだ。

 

退屈な音楽。退屈な本。退屈なインターネット。退屈な夜。見慣れた部屋の風景。しかし、そこから抜け出すことは、今の僕にはできない。昔とは何かが決定的に変わってしまっていて、たぶん、僕を家から連れ出す何かを取り戻すには、身の回り、そして自分の中のいろいろなことを変えないといけない。

 

別に今、夜更かししたって、休日の午前中がちょっと縮まるだけだ。もし今日が週の中日だったら、どんなに遅くまで寝ていても、きっと朝には起きて仕事に行くんだろう。あの頃感じていた、ちょっとした悪いことをしている感覚。そんなもの、どうやったって取り戻せやしない。それは間違っているわけではなくて、それが成長ということなのだと思うし、健全なことなのだと思う。それでもちょっと、やっぱり、その頃のいろいろが、たまらなく懐かしくなったりしてしまうのだけれど、きっとそれも含めてちょっとずつ歳をとるっていうことなのだろうな。たとえば、ふっと見上げた東京の端っこの星空だったり、深夜の店の中の人々の疲れた表情だったり、自転車で走る長い坂道だったり。思い出してみると鮮明に蘇ってくるようでもあり、そのいくつかの記憶は時間の経過に伴って美化されたり改竄されたりしてしまっているものなのだろうなとも思ったり。

 

想い出はいつもキレイだけど それだけじゃおなかがすくの

JUDY AND MARY - そばかす)

 

はらぺこのおなかを牛丼で満たしたりは、今はしない。Choose life. Looking ahead the day you die.

none

 

「帰る」という言葉の意味をよく考える。実家に「帰った」あと、僕は東京に「帰る」のだろうか。本当の意味で実家に帰ったことなど、大学で東京に出てきてから、はたしてあっただろうか。どうしようもなくやることのない年末年始、家族が集まってくだらないテレビ番組を見ている中、ひとり生まれ育った部屋に籠っていると、不思議なことに楽しい思い出ではなくて嫌な思い出や、思い出したくない感覚ばかりが蘇ってくる。まだ小さかった時、一刻も早くこの街を抜け出したかった。そうしないと、自分の人生が、陰鬱な灰色の空に押しつぶされてしまいそうで。僕はこの街で一生を過ごすことに決めた人たちーそれは自分の両親さえも含むーの判断を理解しようとせず、ただただ忌み嫌うだけの最低の人間だったし、今も本質的にそんな自分を変えることはできていないのだ。なぜ地元の大学に行こうとするのか。なぜ地元の企業で働こうとするのか。そんなことは人の自由だし、もちろんそこには人それぞれの理由があるはずなのに、僕はまるで東京で学び東京で働いた自分の選択が絶対的に正しいとでも言うような勢いで、地元を毛嫌いした。早く東京に「帰り」たい。こんなところで時間を無駄にしている場合じゃない。僕の居場所は東京にある。そんな馬鹿げた独り言を声に出すことなく脳内をぐるぐると駆け巡らせながら、時間をやり過ごす。実家に帰るたびに、そんなことをしている自分の姿に気づいて、情けなくて悲しい気持ちになる

 

予定よりも早く東京行きの新幹線に乗る。東京に「帰って」きたらあとはもういつもと変わらない怠惰な休日だ。適当にご飯を食べて、適当に昼寝をして、ネオンがギラギラと輝く新宿の街に繰り出す。買わなくてもいいものを買い、会わなくてもいい友達に会い、しなくてもいい話をして、自分の陳腐な物欲と承認欲求を満たす。今僕はとても失礼なことを言っている。そうだ僕は最低な人間なんだ。そんな気持ちになるときが一年のうちに数回あって、つくづく自分という人間が嫌になる。最低な人間であること自体に対してではなく、そんなことで鬱々と悩んでいる自分に対して、だ。人間なんてものは大抵は下衆で最低だ。僕だってそんな最低な人種のひとりにすぎない。

 

仕事にいささか疲弊していた年末の僕はどうやら年明けの月曜と火曜を休みにしていたようだ。朝起きて何一つやることがないことに気が付いた僕はこの尊い休日を最低なものにしてやろうと決め込み、まずはもういちど目をつぶることにした。飲み会で飲んだ焼酎のせいか、夜遅くに食べたラーメンのせいか、必ずしも快適な睡眠ではなかった。だからなのかどうかはわからないけれど、変な夢を見た。僕はどこかの組織のスパイかなにかで、敵の組織のアジトから何か重要な情報を盗み出し、脱出を試みていた。途中、自分の正体が暴かれてしまう危機的な状況に陥ったけれど、機転を効かせて逃げ切ることができた。一体全体なんのためにそんな危険な行動をしているのか、自分のやっていることが何につながっているかもわからないままに、僕は危険な思いをして、身を削って働いていた。まるで現実世界での俺みたいじゃないか、と思ったけれど、「危険な思いをして、身を削って働く」なんて大層なことはしていない。結局自分は自分を悲劇の主人公に仕立て上げたいだけなのだ、と思ってまた暗い気持ちになる。もうちょっとオトナになろうよ。だって、おまえ、何歳だよ?何か嫌な出来事があったわけでもないのに勝手にすさんだ気持ちになりながら、中華料理屋でビールを飲んで、適当なつまみを買って、酒を飲む。あれ、最近、酒に頼っていないか?それってまずくないか?でもいーや、オトナならお酒を飲みたい時だってあるよね。ほら、そうやって都合のいい時だけオトナになろうとする。

 

ねえあの頃はもっと切実でリアルだった「何かをなさねば」という思いは、もしかして、今の自分を苦しめてはいないだろうか。あの頃の、「ここを抜け出せば何かを成し遂げられるはず」なんていう考えと、何かを頑張っているようで何も成し遂げられず、心は空っぽのままの今の自分との、どうしようもないギャップは、どうやったら埋まるのだろうか。埋める必要があるだろうか。忘れてしまえばいいのではないだろうか。自分の過去から何を消し去ることができるだろうか。懺悔すれば救われるだろうか。救われたとしても、ねえ君は今どこに行こうとしているの?

 

「孤独」という言葉を、久しぶりに感じた。友達も、恋人もいるけれど、こうやってひとりで過ごす自堕落な休日というのは、どうしようもなく孤独だ。ほら、嫌な奴だろう?友達も恋人もいるのに、勝手にセンチメンタルな気分になり、こうやって誰に向けるでもない文章を書きなぐっているんだ。

 

きっと明日も、記憶に残らない休日をすごす。それが終わったら仕事だ。日常が始まって、こんなくだらないことを考える時間だってなくなる。だからどうした?考えなくて済むなら、それが一番じゃないか。

 

映画『LIFE!』、そして旅について

 

忙しい仕事を抜け出し、少しだけ早めに休みをとってゆっくり休み、友人と沖縄まで旅行に行っていた。この歳になって初めての沖縄だった。沖縄には本土とは違う文化が確かにあり、我々が普段触れている世界とは異なった物語が紡がれている場所だった。人々がその土地を愛しながら暮らしている姿、そして人々に愛されながら生きてきた海や森。人と自然が共に生きている姿。そういったものを目にするのは、とても気持ちの良いことだった。

 

 

 

とはいえ、最近は旅行といっても友人や恋人と、コンパクトにまとまった、快適なものが多くなっていて、やはり学生時代のような、自分の世界観がぐわんぐわんと揺らいだり、見たことのない世界がばーっと広がるような感覚に襲われるような旅の経験は、長いことできていない。最後に外国でローカルのバスに乗ったのっていつだっけ。見たこともないような景色を自分の目に焼き付けること。自分とはまったく異なった価値観の中で生きる人々と出会うこと。自分の常識が通用しない世界で、もがいてみること。そして、その経験をしっかりと、素直に、心で感じること。それが旅に出る理由のはずだ。旅することによって、人生が変わるかどうかはわからない。変わる人もいるだろうし、そうではない人もいるだろう。しかし、確実に言えることは、旅は人の生き方を豊かにしてくれるということだ。逆に、旅がなければ人生はとても味気ないものになってしまうだろう。少なくとも僕の場合は。

 

 

To see the world, things dangerous to come to, to see behind walls, draw closer, to find each other, and to feel. That is the purpose of life.

 

 

年末にひとりでDVDを観た映画『LIFE!』は素晴らしい作品だった。

 

米「LIFE」誌は、これまで現代の人類の重要なシーンを写真や文章を通して人々に伝えてきた、偉大な雑誌だ。主人公のウォルターは16年間、LIFEの写真管理部でネガの管理という、決して陽の光を浴びることのない地味な仕事を続けてきた。ウォルターは空想の中では思いを寄せる女性に勇敢な姿を見せたり、誰も経験したことのないような経験をする冒険家になるが、現実の世界では地味で、冴えないサラリーマンだ。

 

時代は変わり、LIFE誌の完全なWeb化が決定される。息を飲むような傑作をLIFEに提供し続けた写真家のショーンから、彼の最高傑作である「25番のネガ」を、最終号の表紙にするよう、LIFE社に手紙が届く。しかし、「25番のネガ」がどうしても見つからない。ウォルターはネガの所在を探るため、ショーンを追いかけ、グリーンランドアイスランドアフガニスタンを旅していく。

 

伝説の写真家であるショーンは実際にウォルターに会ったことはなかったが、LIFE社の薄暗い一室で、誰にも注目されることなく自分の写真を大切に現像してきたウォルターを信頼していた。「25番のネガ」は、そんな信頼と最大限の敬意を表した、まさしく最高傑作だった。

 

 

アフガニスタンの山奥で、ユキヒョウの撮影を行っていたショーンに、ウォルターはついに出会う。そこでショーンはこう語る。

 

 

Beautiful things don't ask for attention.

 

 

言うまでもなく、ここで言う「美しいもの」は、ウォルターのことでもある。ウォルターの仕事は、LIFEという雑誌にとって真に価値のあるものだが、地味で日の目を見ることはない。だからこそ、この映画の原題は、"The Secret Life of Walter Mitty"となっているのだ。ウォルター・ミティの隠された人生。

 

 

目の前の物事に、真摯に取り組むということは、美しい。それでも、真実を見つけるためには、人は知らない世界に飛び出していかなければならない。冒頭のLIFE社のモットーにもあるように、「壁の裏側を見る」必要がある。ウォルターは今までの自分を捨てて、なりふり構わず未知の世界に飛び出した。そして、ついに「25番のネガ」をー自分にとって本当に大切なことを、人生(LIFE)の神髄をー見つけた。

 

 

ロマンティックで、マジカルな、傑作。旅に出る意味、そして生きる意味を考えさせられる。そして、何よりも、見た後に無性に旅に飛び出したくなる物語だ。

 

 

カメラ越しにユキヒョウを見つけたショーンに、ウォルターは「撮らないのか?」と話しかける。ショーンは答える。

 

 

 -Sometimes I don't. If I like a moment, for me, personally, I don't like to have the distraction of the camera. I just want to stay in it.

 

- Stay in it?

 

- Yeah. Right there. Right here.

 

 

美しい瞬間に「留まる」、「身を委ねる」…日本語に訳すのが難しい表現だが、とにかく、"Stay in it"である。そう、それこそ、旅をする理由。

 

 

思い返してみたら、カメラを撮ることを忘れて、ただ茫然と立ち尽くした経験が、僕の平均的な同年代と同じか、ほんの少しだけ多いくらいの旅行経験の中にも(実際はどうなんだろう?)、ある。カメラを撮ってしまったら、この思い出が途端にチープなものになってしまうのではないか。そんなことを考えるような瞬間。雨に濡れるオランダの街。夕日に沈むモスタルにかかる橋。シエナのこの上なく美しいカンポ広場。モンマルトルから眺めるパリの姿。カッパドキアのこの世のものとは思えない絶景。屋久島の大自然。群馬の山奥で眺めた星空。沖縄のマングローブの森。

 

 

今年は知らないところにたくさん行こう。見たことのないものを見る旅に出よう。そして美しい一瞬に身を委ねよう。

 

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